大疑問の研究

豆腐の角に頭をぶつけて死ねるか?

多くの殺人事件のドラマの中でも、重要な焦点となるのが凶器である。凶器の隠し方や意外なものを凶器に使うといった謎解きは、数々のミステリー作家が挑戦してきた。
その意外な凶器の部類に食材がある。例えば、カチカチに凍らせた肉を鈍器にして人を殺し、その肉を調理してやってきた刑事に食べさせてしまう…なんていうストーリーがある。
モノは使いようというわけだが、こんなことができるのも元々硬い食材であることが前提条件だ。
ことわざに「豆腐の角に頭をぶつけて死ぬ」なんてのがあるが、どうぶつかってみても豆腐では傷一つ負うことはないはずだ。…と思ったらこれがそうでもなさそうなのだ。
山形県の特産品に「六浄豆腐」というものがある。 これは硬めに作った豆腐に荒塩を丹念にすり込み、コチコチに乾燥させたもの。鰹節のように硬いため、削ってお湯で戻して吸い物の具などに使われる。 鰹節の削られる前のものを触ったことがおありだろうか。確かに大変硬い。
鰹節はどんなに大きくても鰹の大きさを超えることはないが、豆腐ならいくらでも大きく作れる。
四角い大きな六浄豆腐に頭をぶつけたら、打ち所が悪ければ死んでしまうかもしれない。
普通この豆腐はすでに削った形で売られているが、元のままの形で入手することも不可能ではないはず。興味のある方は手に入れて、頭をぶつけてみたらどうだろう。 もちろん、どうなろうと当方は一切責任を負いませんのであしからず。
遺書にもここで読んだということはどうか書かないで頂きたい。
音楽をかけると集中できるの?

音楽をかけると仕事や勉強がはかどる、という人がいる。
反対に音楽が聞こえると全く集中できない人もいる。
普通、事務系の職場や学校では音楽がかかることはあまりない。仕事をしながら音楽を聴くのは不謹慎だという考えが日本にはあるようだ。音楽を聴かなければ集中できない人にとっては困ったことである。
だが、このように音楽をかけて作業をする時に、人によって集中力に違いが出てくるのはどうしてだろうか。ある人は集中できるし、別の人は全然集中できない。
これは聴く音楽の種類も大きく関係してくる問題だが、ここはまあ無難な自分の好きな音楽ということにしよう。
実験でも確かめられていることだが、好きな音楽を聴いているときは脳波がリラックスした状態になる。この時は集中力が高くなっている。つまり、好きな音楽を聴くことは確かに集中力に効果がある。 しかし、音が聞こえているということはその分、脳が聞く事に使われているわけである。これでは何かに100%没頭することはできない。
考えてもらいたいが、本当に集中力が必要な時に音が聞こえることを好む人はあまりいない。
書道や絵画、その他集中力が必要な作業では音楽はむしろ邪魔なことが多い。
だが、勉強や仕事など、ともすれば気が散ってしまいがちな場合には音楽をかけたくなってくるのではないか。 これはつまり、ふと気がそれたときに音楽に耳を傾けることで、作業の中断を短くしているのである。
要するにこうもいえるかもしれない。 「集中力のある人は音楽を聴きながらの作業は集中できず、集中力のない人は音楽をかけることで効率がよくなる」
さあ、胸に手を当てて考えてみよう。あなたは作業をする時に音楽をかけるだろうか・・・?
ちなみに私はこれを書きながら、さだまさしの曲を聴いているところです。
「勘当」ってどうやるの?

「勘当だ!」というセリフはもはや死語になりつつある。最近のドラマにはそんなセリフはほとんど出てこないし、マンガにも登場しない。かろうじて落語の中に残っている程度だろうか。
一般に勘当とは、親子の縁を切り、もう金輪際他人同士…といった状況を指すのに使われる言葉だが、実際の意味はもう少し広い。
勘当は「親、主君、師匠などからその関係の解消を申し渡すこと」と定義できる。従っていわゆる破門のことを「勘当」と言っても間違いではないし、仕事をクビになったときも「勘当された」で正しいことになる。それが現在では、ほとんど親子関係の断絶といった意味に使われているわけだ。
勘当を行うと、例えば親なら子の行動に対して責任を問われなくなり、財産の相続権も剥奪できる。全くの他人扱いである。 これによって社会的連帯責任を回避し、家の没落を防ぐことができた。
勘当という制度はかなり古くからあり、江戸時代ごろに法制化されたようだ。日本の勘当には、「本勘当」と「内証勘当」と呼ばれるものがあった。幕府や役人、奉行所などに正式に届けを出して勘当するのが本勘当で、口頭での言い渡しなど公式ではない勘当が後者に当たる。こちらは言ってみれば家を叩き出されるようなもので、懲罰的な意味合いが強いものだった。 ちなみに、勘当は届けを出せば文字通り帳消しにすることができた。
さて、この「勘当」、現在でも有効なのだろうか?つまり親は子供と法的に血縁関係を絶つことができるのか? 答えはNO。今の法律では血を分けた親子の関係を絶つことはできないのだ。(非公式の内証勘当はできるといえるかもしれない)
むしろ逆に、親が子供の世話に必要な義務を怠ったり、子供に著しい害を及ぼす場合、親権を剥奪されてしまうこともありえる。(民法第八三四条 親権喪失の宣告等)矛盾した表現だが、親が勘当されてしまうのだ。
対して、どうしようもないワル息子の場合でも親は「二度とウチの敷居をまたぐな!」程度の擬似勘当しかできないのだろうか。 法的にはそうなのだが、手はある。民法第八九二条「推定相続人の廃除」がそれ。これは、子供がひどい虐待や侮辱をしたり、著しい非行があった場合に相続権を与えないようにすることができる、というもの。つまり、目に余る非行をした子供には財産を譲らない、ということが可能になる。
まあ、これができるのは子供がよくよくのことをした場合だけだし、そうでなくてもそんなことしたくはない、というのが親心だろう。
上記の情報が単なる知識としてしまっておかれることを願うばかりである。
赤ちゃんは実は泣かない?

「泣く子と地頭には勝てぬ」とはよく言ったもので、赤ちゃんといえば泣くものである。泣かない子がいたら回りはさぞ心配するだろう。そもそも、生まれた直後には「産声」といってなかなければ呼吸すらできない。
しかし−お子さんがおられる方、または赤ちゃんを近くで見たことがある方はよく思い出していただきたい。・・・赤ちゃんが涙を流しているのを見たことがおありだろうか?
実は、産まれてから数ヶ月の間は、赤ちゃんは涙を流さない。声を上げて喚きはするものの、ほとんど涙を流さない、つまり「泣かない」のである。 これは一体なぜだろう?
産まれたばかりだからまだ涙が溜まっていない?いやいや違う。実は感情的に流す涙というのは、自分の気持ちを伝えるのに効果的だということを経験した後にしか出ないのだ。 例えば「おしめが濡れた」という事を知らせるには涙を流すとよい、と学習するのである。だからそのことを学習するまでの期間は、涙は−少なくとも感情的な−流さないはずなのだ。
また、「涙は女の武器」というが、女性が泣くのも「涙を流すと相手の感情に訴えやすい」ということを学習した結果といえる。 だが、女の涙というヤツはなだめたり食べ物をあげたりで済むものではない。(と思う)すぐご機嫌を直してくれるぶん、赤ちゃんの方がラクかもしれない・・・
言葉の研究

「灯台下暗し」の間違い

「身近の事情はかえって分かりにくいものである。」という意味のことわざ、あなたなら何を挙げるだろうか。恐らく「灯台下暗し」だろう。
私の父はズボンを履いたままズボンを探したり、メガネをかけたままメガネを探していることが時々あるが、これこそ灯台下暗し。―いや、これはただの天然ボケか。
「灯台下暗し」は非常に有名なことわざなので、子供から年寄りまで多くの人に知られている。
だが、あなたは勘違いしていないだろうか。「灯台」の意味である。
このことわざでいっている「灯台」とは、イラストにあるような船の目印になる岬の「灯台」では、
ない。
さあ、今まで間違って覚えていた方は脳の回路を繋ぎ変えていただきたい。
「灯台下暗し」の「トウダイ」、実は「灯明台(とうみょうだい)」のことを指している。
灯明台とは昔使われていた、油やろうそくを燃やして明かりとする室内照明具のこと。「燭台(しょくだい)」とほぼ同じ意味だ。
灯明台の芯に火をつけて辺りを明るくしても、台の足元は暗くなっている。暗い部屋でろうそくをつけて見ればこのことがよく分かるだろう。このことから、現在使われているような意味に転じたわけだ。
書くときはもちろん「灯台下暗し」で間違いではない。しかし、意味はしっかりと覚えておくようにしたい。ちなみに、岬のトウダイのことは「燈台」と書くほうがどちらかといえば、正しい。
それにしても、「灯台」そのものの意味を間違って覚えていたとしたら、それこそ灯台下暗しである。
賞状に句読点がないのはなぜか

私はこれまで「賞」というものをもらった経験がほとんどない。
なにやら小学校のときに親に手伝ってもらって描いたポスターが入選したような記憶があるが、それ以降これといって賞をもらっていない。
だから、スポーツや芸術に秀でた方の部屋に並んでいる賞状が、なにやら眩しく見えてくるものである。
ところで、この賞状また感謝状などには句読点がないのである。前述したように手元にそんなものは一枚もないが、他の人のを見せてもらうと確かにない。 これはなぜだろうか。
賞状のレイアウトを見てみると、句読点を入れることによってなんとなく品位が落ちるのは分かる気がする。だが、理由はそれだけではない。
そもそも、日本には文に句読点を入れるという習慣はなかった。句読点の入った文書が見受けられるようになるのは明治も30年代になってからである。西洋から、コンマやピリオドを入れるといった風習が輸入され、その反映として句読点が使われるようになったのである。
では、なぜ句読点を使う必要が出てきたのか。これは、中国の漢文と関係があるらしい。
皆さんも学校で習ったと思うが、「国 破レテ 山 河 在リ…」といった漢文には「レ点」「一二点」「上中下点」といった「返り点」が使われる。その系統として文の区切りや終わりを示す句読点が挙げられるのだが、慣れてくればこういった補則符号は必要ない。つまり、「符号を使う=学のない人」という図式ができてしまうのだ。
もちろん、句読点を使えば読みやすい文が書けるのだから一般の人が使う分には問題ない。
だが、賞状や感謝状といったものに使うとその人を見下す感じになってしまう、というわけだ。
つまり、賞状に句読点がないのは相手に敬意を表すため、と言えるだろう。
ちなみに賞状などの宛名は「何々 殿」となっているが、「殿」は「様」よりも一ランク下の表現。
これは賞状を発行するほうが目上ということになるのだから、正しい使い方である。だが「殿」を手紙で使うと、礼を欠いた印象を与えかねないので気をつけよう。
「侘び」「寂び」の違い

日本という国には、独特な感情や感性がある。 中でも、「侘び、寂び」は代表的な感性といえるだろう。 よく使われる言葉だが、では「侘び」「寂び」の意味を説明してみろと言われると困ってしまう。 なんとなく寂しい様子や枯れた雰囲気を表すのは分かるのだが、両者の明確な違いはどうも釈然としない。 ここは日本人として、「侘び」「寂び」の正しい意味を理解しておく必要がありそうだ。
まずは「侘び」だが、これは「侘ぶ」という動詞が名詞化したもの 。「侘ぶ」には気落ちした様子やがっくりした様子、また閑居な地で生活するといった意味がある。
そして、「侘び」という語は一般的には俳諧、とくに芭蕉の蕉風俳諧の美的理念なのである。
落胆や失意の中に感じる、深い感情や情緒、味わいといったもの、それが「侘び」である。
これを受けて、芭蕉の句には寂しさや悲しみ、諦観といったものが表れている作品が多い。
「ものいへば 唇寒し 秋の風」 「夏草や つはものどもが 夢の跡」
「父母の しきりに恋し 雉の声」 「初しぐれ 猿も小蓑を ほしげ也」
といった句には芭蕉の「侘び」の精神が滲み出ているといえるだろう。
「寂び」は侘びの概念を更に発展させたものとも考えることが出来る。
賑やかな様子や豊かなもの、美しいものが閑寂になり、枯れたときに見いだす深いおもむき、それが「寂び」である。たんに寂しい、悲しい、孤独といった感情ではなく、そこに深い豊かさが伴わなくてはならなず、「侘び」と対をなす。
例えば、人が大勢出て賑わったお花見。やがて花が散ってゆき、それも終わる。ひところの華やかさは幻のように消えうせる。そこに漂う一種の哀愁、寂寥、閑静といった感情。これが「寂び」と言えるだろう。 ノスタルジーや懐古主義とは近似をなしながらも一線を画す。まことに奥深い、日本ならではの豊かな感情だ。
以上から、簡単に言えば「侘び」と「寂び」の違いは、 「侘び」は人の感情の中に情趣を見いだすもの。そして物事の様子から寂しさや深いおもむきを感じるのが「寂び」ということになる。
だが、これはかなり簡略化した説明だ。実際の「侘び」「寂び」の持つ深い意味は、あなたの心で感じ取るしかないかもしれない。
侘び、寂びを感じ取れる事象は身近に無数存在する。ただ見逃しているだけなのだ。
心のアンテナの向きをちょっと変えて、この深い感情を豊かに感じ取れる人間になりたいものである。
「マジ」のマジ!?な語源

若い人なら少なくとも2日に一回は必ず使ってしまうであろう言葉が「マジ」だ。
世の中がそれほど信じられないというわけでもないだろうが、相づちの代わりとしてもなかなか汎用性の高い言葉なので愛用されている。
この言葉の語源、普通は「まじめ」の「まじ」をとったものだとされている。なるほど、「それ真面目な話!?」が略されて「マジな話!?」かなり信憑性のある説である。もちろんこの説は正しいと思う。 いや、正しいのだろう。
だが、ここにひょっとしたら・・・という全く別の説が存在する。
それは、打消推量の文語体である「まじ」からきたというもの。文語とは日本で古くに使われていた言葉だが、この中に「まじ」という助動詞が存在するのだ。
文語の「まじ」には様々な意味がある。だが、その中でよく使われるのが打消推量、すなわち「・・・ナイダロウ」という否定の意味なのである。 そもそも「まじ」は不可能や禁止、否定を表わす語。今でも使われる言葉に「あるまじき行為」というのがあるが、あれは「あってはならない行為」のこと。つまり「まじ」が打ち消しに使われているのだ。 現在使われている「マジ」も「そんなことはないんじゃないの?」という軽い否定のニュアンスが含まれている。
「まじ」の活用形は次のとおり。

「まじ」が使われている書物には「ただ今は見るまじ」とある「枕草子」、「この事は更に御心より漏らし給ふまじ」という記述がある「源氏物語」など数多い。
これらの用法を見ていくと、「本当だろうか」ということを表わすのに「まじか」という言い方もあるのではないかと思われる。
思うに、「マジ」がこれほど違和感なく市民権を得たのは、「まじ」という言葉自体が元来持つニュアンスを日本人として遺伝的に知っているからではないか。つまり、「マジ」は文語の「まじ」の下地の上に今の地位を築いたと言えるのだ。
科学の研究

「水は0℃で凍る」は間違い?

水が0℃の時凍る、というのは小学校で習う常識だ。なにしろ、水が凍り始める温度を「0℃」と定義したのだから、これは揺るぎない事実、 のはずである。
ところが、実は水が−10℃で凍らない場合もある、といったらどうだろうか。「なにか薬品でも入ってるんじゃないの?」と思うかも知れないが、そんなことは全くない。 完全に純粋な水を液体のまま、−25℃くらいまで冷やすことは実験室でなくても簡単にできるのである。
種明かしをすると、このとき水は「過冷却」と呼ばれる状態になっているのだ。 「過冷却」とは、液体が凝固点以下、気体は沸点以下に冷却されても元の状態を保ち続ける現象のこと。水に限らず多くの液体が過冷却現象を起こすことが知られている。気象に関していえば、雲の中の水分が氷点下以下の温度になっても、氷の結晶とならずに水の状態のまま存在していることがある。極端な例では、雲の中の水分が−40℃程度までも過冷却されることがあるのだ。
では過冷却状態になった水はずっと凍らないのかというと、そうではない。ゆすったり、氷の結晶を加えたり、またさらに冷やしたりとなんらかの刺激が与えられると凝固してしまう。過冷却の微妙な均衡が崩れてしまうためだ。 ということは、これを利用すれば何の変哲もないただの水を一瞬にして凍らせてしまうマジックができるのではないか?その通りである。ミネラルウォーターやコンタクトレンズ洗浄用の精製水を密閉した容器に入れ、充分な低温の冷凍庫でゆっくり、静かに冷やすと過冷却水ができるのだ。これをコップに注ぐと注がれてる途中やコップの中で瞬間的に凍ってしまう。まさに科学のマジックショーが楽しめるのである。
うまく作るのは結構難しいかも知れないが、挑戦する価値はあるだろう。また、スコッチやウオッカを飲むときにでも、グラスに注いだ瞬間凍るこの魔法の水を使ってみてはいかがだろうか。
避雷針は雷を避けるの?引き寄せるの?

避雷針は当然雷を避けるハズ―そうでなければ困る。
だが、マンガや映画などで雷が避雷針に落ちているシーンを見たことはないだろうか。あの有名な映画「バック・トゥ・ザ・フューチャ」にも避雷針に雷が落ちる印象的な場面がある。
それに、高いものに雷が落ちやすいというのは常識ではないか。 屋上などにある、ここめがけて落ちてくださいといわんばかりの避雷針は意味があるのだろうか。 実際の所避雷針は雷を避けてくれるのか?それとも引き寄せるのか?
答えは、「避けもするし、引き寄せもする」というものだ。もっと正確にいうなら「雷を避けるが落ちた時も安全に電流を逃がす」となるだろう。そう、避雷針は実際に雷が落ちるのを防ぐのだ。でも高くにあって先が尖っているのにどうしてそんなことができるのか?
そもそも、雷がどうして起こるのか考えてみよう。 まず、雲を構成している水分子などがこすれあう際に摩擦が発生し※、+−の電気が発生する。(なぜ摩擦で電気が発生するかはまたの機会に触れることにしよう。) このように電気を帯びた雲を雷雲または積乱雲というが、高い所の雲は+、低い所は−電気を帯びている。そしてこの二つの雲、また+と−の電位差が大きい所で巨大な電流が流れる。これが雲の中で発生する雷でいわゆる稲光である。
さて、この雲が地上と干渉するとどうなるか。−の電気を帯びた雲に地上の+電気が引き寄せられて地上、とりわけ突起物の+電圧が高くなってゆく。つまり雲との電位差が大きくなる。そして両者の電圧が限界を超えると、「絶縁破壊」という現象を起こし大規模な放電が起こる。空気は電気を通さない不導体だが、電圧をどんどん高くしていくとこの現象が起きて瞬間的に電気が流れるのだ。これがつまり雷である。
ではいよいよ避雷針の謎に迫ろう。避雷針は必ず先が尖っているが、実はあの先端に秘密があるのだ。
このヘタな図は、先端面積が小さい場合と広い場合を比較したもの。
広い場合、空気中と物体との間で電位差、つまり電圧の差が大きくなる。これは放電しやすい。水をためるバケツだと思えばいい。大きいほどどんどんたまっていって、限界がくるとあふれ出る。
対して先端が狭い場合。これはいわば水をためずに流しっぱなしにしているようなもの。穴のあいたバケツというわけだ。先端面積が狭いため、+の電気がたまる暇なくすぐに−電気と中和してしまうのである。 もし避雷針の先端が球状になっていたら電気が蓄えられやすく、電位差が大きくなるので落雷の危険性は非常に高い。尖っていなければ避雷針の役を果たさないのだ。
また、もし電圧が大きくなって耐え切れなくなって落雷しても(穴のあいたバケツでも水を入れる量が多ければいつか溢れるのと同じ)地上に安全に電流を逃がすようになっている。
ちなみに避雷針は先端から下45度の角度内は雷が落ちない安全域だといわれている。
さて、ここまで避雷針の仕組みを解説してきたがお分かりになっただろうか。 勇気のある方は雷の鳴る日に尖った金属棒を持ち出して野原に立ってみて頂きたい。理論的には、雷を避けられるハズだから!?・・・(何があっても責任もちませんのであしからず)
※なぜ雲の中で電気が起こるのかはよくわかっていない。これは一つの説である。
「エイズで死ぬ」は厳密に言うと間違い

これまで人類は様々な病気を征服してきた。 ペニシリンの発見によってしょう紅熱や破傷風などは死に至る病ではなくなった。 結核は十数年前までは死の病と恐れられてきたが、今ではワクチンでかなりの程度予防することができる。 医学の進歩は治らないと思われてきた病気や疾患に次々と打ち勝っている。
だが、1985年ごろに発見され今もって爆発的な増加率を見せているエイズ―Acquired Immune Deficiency
Syndrome、後天性免疫不全症候群―に対する有効な治療法は確立されていない。 エイズは知ってのとおりヒト免疫不全ウイルス、HIVによって免疫系の働きが損なわれる病気である。 ここでエイズの基本的な発症経緯を復習しておきたい。
私たちの体には細菌やウイルス※から身を守る免疫機構があり、それをおもに担っているのが「ヘルパーT細胞」(以下HT細胞)と呼ばれるリンパ球の一つである。HIVはこのHT細胞の表面にあるタンパク質にくっつき細胞内に侵入する。 そして長い潜伏期間―10年ぐらいが平均といわれる―の後そこで自らのコピーを作り増殖し、宿主細胞を破壊して別のHT細胞に侵入、といった経緯を繰り返しどんどん増えていく。 だが、このHIVの破壊活動そのもので死に至る事はない。 問題は免疫機能が低下したことにより起こる「日和見感染症」である。 日和見感染症とは免疫機能が損なわれたことにより普段はなんでもない病気にかかってしまうことをいう。 いわば警察のいない無法地帯と化すのである。
日和見感染症は20以上の種類が知られているが、代表的なものにカリニ肺炎や結核、髄膜炎やヘルペスなどがある。 また日本人はサイトメガロウイルスという失明をもたらすウイルスに感染することも多い。
エイズの感染経路は大きく3っつある。血液感染、性行為による感染、母子感染である。エイズ患者の多いアメリカでは男性同性愛による感染率が最も高い。だが、日本では過去の統計では7割以上が血友病患者であった。 血友病は血液中にある血液凝固因子が足りないため出血するとなかなか血がとまらなくなる病気である。
それを治療する薬としてアメリカから輸入していたのが「非加熱血液製剤」で、これにより血友病患者の感染率が激増した。血液製剤はアメリカで売血によって集められた血液から作られており、血液提供者の中に1人でもエイズ感染者がいればそこから作られた製剤は全てエイズに汚染されてしまう。
日本の血友病患者はこの製剤を使わされ続け、5千人の血友病患者のうちなんと2千人がエイズに感染するという驚怒すべき事態となった。今も彼らはエイズやエイズの発病の恐れと戦っている。
エイズについての正しい知識教育が学校などですすめらているにもかかわらず、エイズ患者に対する偏見や差別はなくなっていない。 エイズは感染力の弱いウイルスなので上に示した3っつの経路以外から感染することはない。日常生活で感染することはなく、患者に対する差別などあってはならないことだ。
そしてもし自分が感染したと思うときはすぐに検査を受けるべきである。 感染していたときも正しい治療を受けるなら発病をかなり遅らせることができる。 また家族や愛する人にうつさないよう自分から予防措置を講じることが必要だ。 感染者の家族ならば必ず支えになってあげなければならない。それと同時に感染を広げないよう注意をすることも大切だ。
いずれにせよ私たち一人一人がエイズについて正しい知識を持ち、感染が広がらないよう努めるべきである。
※細菌とウイルスの違いについては「難しい雑学の解剖」参照。
磁石はどうして鉄を引き寄せるのか?

素朴だが難しい疑問の典型か。子供の頃から気になっていて、今でもやっぱりよくわからないという方もおられるだろう。 自分の子供に聞かれて困ってしまったという人もいるかもしれない。 確かにこれは少々難しいのである。原子レベルでの働きがあるので子供に聞かれてもなかなか答えられないのだ。ここではその長年の疑問をできるだけわかりやすく解説したいと思う。
永久磁石である棒磁石を適当な長さで切ってみると、両端に再びN極とS極ができる。 こういった実験は学校でやった事があるかもしれない。 そしてこれを更に短く切って・・・ということを繰り返してみる。なんと、砂粒ほどの大きさになっても磁石のままなのである。

磁石のことを「強磁性体」ともいう。強磁性体は磁石もしくは磁石になりうる物質、早い話が磁石にくっつく物である。代表的な金属は鉄・ニッケル・コバルトの3種。 といっても普通は鉄しか目にしないだろう。
ではこれらは他の金属とどこが違うのか?それは原子を構成している電子の回り方。 普通、原子核の周りを電子はランダムに運動している。 そのため電子の位置を特定するのは不可能だ。しかし鉄などの原子では、電子が同じ向きに回転するのである。
例えれば普通の電子は校庭をでたらめに走り回っているのに対し、鉄の電子はトラックを周回している状態だ。 電子が同じ向きに回転し続けると、ちょうどコイルに電流を流したのと同じ現象が起こる。つまり磁場が発生するのだ。 そう、これこそが永久磁石の磁気の正体である。 永久磁石も原子レベルでは電磁石と同じ原理なのだ。
そしてこの原子の向きを同一方向に揃えると、それだけ磁気が強くなり我々が目にする磁石になる。 揃っていないものが釘など普通の鉄※なのだ。
磁石に釘を何本か連ねてくっつける、という実験をご存知だろう。あの状態は釘を構成している原子の向きが一時的にそろって、一時磁石になるために起こる。
ここまでで一応磁石の仕組みは解明したが、しかしここで新たな疑問がわいてくる。 いわく、釘は一時磁石にしかならないのに永久磁石はなぜ磁力を保ち続けられるのか?磁石を熱すると磁力がなくなってしまうのはなぜか? これらの疑問は「難しい雑学」で扱いたいと思う。 磁石は奥が深いのだ・・・
※鉄に限らず強磁性体はみなそうだが、ここでは強磁性体の代表として鉄を挙げた。