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言葉の研究

言葉の研究

カマをかける―草刈り鎌のことなのか?
「互角」と「伯仲」の語源
実際の意味とはかけ離れた格言たち!
「手を染める」のに「足を洗う」のはなぜ?
覚えておくと面白い、モノの別名
閑古鳥ってどんな鳥?
ドジを踏む―何を踏んでいるのか?
「灯台下暗し」の間違い
賞状に句読点がないのはなぜか
「侘び」「寂び」の違い
「右」の定義
「村八分」ってなにが八分?
将棋の歩の裏の「と」ってどんな意味?
「伊達男」って伊達政宗に関係が?
「マジ」のマジ!?な語源
「こけし」の悲しい語源
「雨ニモ負ケズ」
聖書にはこんなに諺がある!
「後の祭り」は本当にある
「おもちゃ」の語源
どら息子―「どら」ってなんだ?
漢字の生い立ちを探ろう
「かかし」たんぼに立ってなぜかかし?
挨拶の謎
鉢合わせ−鉢を合わせてどうする?
「あばら骨」と「あばら家」って関係ある?
「サイレン」とはギリシア神話から
二束三文ってなにが「二束」?
西向く侍って何のこと?
酒の肴−魚と関係があるのか?
刺し身―どう見ても切り身なのに?
グレープフルーツ、ぶどうとどんな関係が?
「じゃがいも」の由来
「かぼちゃ」の由来
「もなか」ってよく考えると何?
「けんもほろろ」−はたして元々の意味は?
おじゃんになる―おじゃんって一体?
玄人と素人―どう考えても読みが違うが?
ビー玉の「ビー」ってなに?
鬼の霍乱−霍乱って何だ?
鬼の居ぬ間に洗濯―なぜ洗濯するの?
呉越同舟って実はいい言葉!
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言葉の研究

 

「カマをかける」―草刈り鎌のことなのか?

   

 「それでね、あの二人なんか怪しいと思ったから、ちょっとカマかけてみたのよ」―実際にこんな会話を耳にしたことはないが、いかにも事務職の女子社員がお茶汲み場で小声で話していそうな内容だ。

しかし、「カマをかける」という慣用句の語源まで把握して使っている人はそうはいないだろう。

なんとなくこの言葉、鎌で稲を刈り取る直前の様子を指しているようなイメージがある。さあ刈り取るぞ、という意思を表して、軽く脅しをかけているような印象だ。 ところが、調べてみるとこの「カマ」とはいわゆる草刈り鎌のことではないのだ。

 

 この言い回しが広く使われるようになったのは江戸時代からで、カマとは火をつけるために用いた鉄製の道具、火打鎌(ひうちがま)のことである。

火打金とも呼ばれる火打鎌には色々な形があるが、鎌の刃に形が似ていることから「鎌」の字が当てられているようだ。

当時、火をつける時は火打鎌で火打石を打って、火をいわば「さそいだした」。この事から、誘い出すよう、たくみに言葉をかける意味で用いられるようになったのだ。

 つまりは火をつける動作が「カマをかける」というわけだが、ちょっとカマをかけるだけのつもりが相手が本気で怒りだして火がついてしまった…なんていうことのないように注意したい。

 

 

「互角」と「伯仲」の語源

   

「互角」と「伯仲」は共に似た意味の言葉で、使用頻度もほぼ互角。まさに伯仲した二語と言えよう。

だが、語源から見ると、どちらかといえば「伯仲」の方が僅かだがライバル間に実力差があるかもしれない。

 

 まず「互角」だが、そのまま読めば「互いのツノ」ということになる。なんのツノかというと、これは牛だと言われており、元々は「牛角」と書いたとされる。仏教には「牛頭両角」(ごずりょうかく)という言葉があり、これがどうやら互角の語源に繋がるようだ。

牛のツノというものは左右に二本あるが、その大きさはお互いほぼ同じ。つまり二者が同じようで優劣つけがたいときの喩えとして牛のツノが用いられていたわけだ。

 

 続いて「伯仲」 。二人は実力伯仲しており甲乙つけがたい―というように使う。互角と意味はほとんど同じだが、経験的にいえば、「互角」は対立していない関係に対しても使われるのに対し、「伯仲」は対立関係にある存在に 用いるのがふさわしい気がする。

 語源だが、これは中国の兄弟の序列から来ている。中国では長男が「伯」次男が「仲」そして三男が「叔」(しゅく)と呼ばれ、長男と次男ではその差が大きくないということから「伯仲」という言葉が生まれた。

 

 しかし一口に長男次男といっても、年齢差が大きいことも多い。

そういう意味では、「伯仲している」という言葉は、「いい勝負をするがまだ差がある」というようなニュアンスの方が正しい気もするが、いかがだろうか?

 

 

実際の意味とはかけ離れた格言たち!

   

 日常多用する慣用句の中には、元々の意味と反対になってしまったものや全然違うものになってしまった言葉が意外と多い。
例えば、「呉越同舟」はいがみあう仲の悪い者に使われるが、本来いわんとしていることはちょっと違う。仲の悪い者同士でも、沈みそうなった船に乗り合わせたなら、団結して窮地を脱しようと努力する―という状況を現す言葉である。
また、「義を見てせざるは勇なきなり」というのも大いに曲解されている名言だ。 この言葉を「人の困っているのを見過ごすのは、勇気のないことだ」という意味だと教わっている人がおそらくほとんどだろう。だが実は元々の意味合いはまったく違う。この格言は孔子の「論語」に出てくるものだが、人々がたたりや霊魂を恐れるのを孔子が見て、「義(理屈、理論的、道理)に合わないことをするのは臆病なのだ」と言ったのがいつのまにか今のような使い方になってしまった。
 これをそのまま当てはめるなら、怪談や迷信を過度に怖がる人に対して「義を見てせざるは勇なきなりだよ」とでも言ってやるのが正しい使い方のわけだが、「はぁ?何言ってんの」という顔をされるのがオチだろう。孔子もややこしい言い回しをしてくれたものだ。

 

 中には二重に意味が変わっているような言葉もある。 「万事休す」がそれだ。多くの方はこの言葉を耳で聞いたら、「万事窮す」という字面が浮かぶのではないだろうか。 実際、現在は「あらゆる手段が尽きてどうしようもなく、窮地に立たされること」という言葉として成立している。 しかし「休す」が正しい表記となると、ちょっと合点がいかなくはないか。 それもそのはず、この言葉が出てくる白居易(はくきょい)の詩を紐解くと、現在の使われ方とはまったく違うことを言おうとしていたことがわかる。
800年頃の唐の詩人、白居易は「老熱」という詩の中で次のように書いている。「ひとたび酒に酔えば、心が満ち足り、全ての物事(万事)が休止したように感じられる。人は誰でも年老いてゆくが、自分は老いてゆくことに何の憂いもない」(一飽百情足,一酣萬事休。何人不衰老,我老心無憂)
 つまり、もともとは「一切の物事が動きをとめる」という文字通りの意味だったわけだが、「きゅうす」の音だけが先行して「万事窮す」となってしまったのである。
 では白居易の意向を尊重して、これもそのまま使うとしたらどんな場面だろうか。
まあ酒を飲んでいるときに使うのが無難といえば無難だが、友人とほろ酔い加減のときに「ああ、万事休すだね」などと言ったら何か悩み事でもあるのかと要らぬ心配をかけてしまうことになる。これはよろしくない。

異性と晴れた日に景勝地にいる時などはどうか。「君と一緒にいると、万事休すだよ」……二度と口をきいてくれなそうだ。
 しかし孔子はともかく、この件については白居易を責めるわけにはいかない。「読んだ字のままではないか、何を曲解しておるのだ」と返されたら、万事休すである。
 

 

「手を染める」のに「足を洗う」のはなぜ?

      

  慣用句には、人体に関係したものが非常に多い。目、鼻、口、耳はもちろん、手足を用いるものも目立つ。

「手を切る」「手を染める」「足を洗う」などはそのいい例だ。

 ところで、この後者の二つはなんか違和感がないだろうか。

悪事に「手を染めた」なら、そこから「足を洗う」のはヘンな話ではないか。

手を染めたなら手を洗えばいいし、足を洗うなら染めるのは足であるべきだ。 

 そもそも「手を染める」ことがどうして悪いことと関係があるのだろう。それに、悪人が改心するときに文字通り「足を洗う」なんてことがあるのだろうか?

 

 「手を染める」という表現は慣用化しているため、あまり疑問を持たずに使っているが実は相当妙な表現だ。実際に手を何かの染料に浸け、色をつけるというのはかなり特殊なケースだろう。

文字通り染物屋の家業のことを指しているという説もあるが、言葉の使われ方からしてもあまり納得の出来るものではない。

 実はこれ、「染める」のではなく「初める」が元々の意味だというのが有力な説だ。「あの子を見初める」「書初め」のように、「初める」と書いて「そめる」と読む。つまり、「手を初める」が当初の表現で、新しい事、とりわけ商売などに着手するというのが元来の意味合いだったようだ。

 広辞苑で「手を染める」の項を引くと、「ある物事をしはじめる。着手する。事業などに関係をもつ。」とあり、本当は悪いニュアンスなど持っていないことがわかる。

「悪事に」が枕詞のようにして「手を染める」とセットで使われるようになってしまい、手を染めるのは悪いこと、という刷り込みがなされてしまったのだ。

 

 では、「足を洗う」の由来はどうだろう。実は、中国語や英語では「足を洗う」に相当することわざは「手を洗う」と表現される。

また中国では「手を染める」に似た表現として、「手を突っ込む」というような意味の言葉を使う。中国では手を突っ込んで手を洗うわけだ。

 しかし、日本の「足を洗う」の成り立ちは中国のことわざとは関係がなさそうだ。

 有力なのは、仏教の習慣に起源があるというもの。

インドの托鉢僧は、一日中裸足で歩いて修行をしていた。道は舗装されていないので、帰ると足は泥だらけ。その足を洗って、心身ともにきれいになることで俗世との関係を浄化したという。

 これはこれで頷ける話だし、説得力がある。しかし、それなら仏教圏

の中国も同じ表現をしていてもよいのではないか。ところが前述したように中国では「手を洗う」という表現だ。

すると、これは日本の習慣や価値観も大きく関係していると考えられるかもしれない。

 「手を染める」とは異なり、「足を洗う」に肯定的な意味合いはほとんどない。洗うのは悪い所業からである。 興味深いことに、何かと関係を持つことを「足を入れる」そして関係を断つことを「足を抜く」という慣用句がある。

一度「足を入れ」た汚い仕事から「足を抜」いただけでなく、かかわりを完全に断つという強い意味で「足を洗った」という表現が生まれたのではないだろうか。

 

 「手を染める」には否定的な意味合いはないのだから、新しい事にどんどん手を染めて頂きたい。そしてもちろん、足を洗わなければならないような所業は避けるのが賢明、ということだ。

 

 

覚えておくと面白い、モノの別名

    

 日本語には、「粋」といえる表現や名前がたくさんある。とりわけ、正式な名前よりも別名のほうが面白いものが多い。

 

 例えば、「御御御付」と書いてなんと読むかご存知だろうか。これは味噌汁の丁寧な呼び方である。汁の付け物を丁寧に言って「おつけ」更にそれが「みおつけ」になり、とうとう「御」が三個も重なって「おみおつけ」になってしまった。

 また、醤油のことを「ムラサキ」というのはよく知られているが、「御下地」おしたじ、という別名もある。「そこの醤油とって」というよりも「御下地お願いします」という方が上流階級っぽくていい。

 「雪花菜」「卯の花」これは共におからのことで、前者は「きらず」と読む。豆腐の殻つまりカスを意味する「おから」に比べ、卯の花や雪花菜といった表現はいかにも粋だ。

 

 食べ物の別名で面白いものはまだまだある。

キャベツを「玉菜」という人は結構多いだろう。でも、「甘藍(かんらん)」という呼び名を知ってる人はあまりいないかもしれない。ちゃんと広辞苑にもキャベツの別名として出ている。

 珊瑚樹茄子(さんごじゅなす)、小金瓜、唐柿、番茄(ばんか)、赤茄子。これらはみな、トマトの別名だ。中でも赤茄子が一番知られているだろう。珊瑚樹茄子なんて一生口に出すことがなさそうな呼び方だが、頭の中で使うだけでもちょっと豪華な気分になれる。「晩御飯は珊瑚樹茄子と甘藍のサラダ」なんて、どんなきらびやかな料理かと思ってしまう。

 

 厨(くりや)から出て次に行くところといえば(?)、トイレ。これも別名が沢山ある。お手洗いに始まり、厠(かわや)とか御不浄はよく耳にするが、「憚り(はばかり)」「雪隠(せっちん)」「隠所」、「閑所(かんじょ)」「後架」なんて言葉もある。デパートでは「突き当たり」や「遠方」など、一般の人が聞いてもわからないような表現が使われる。

 

 ちょっと考えてみると、別名が「ないモノ」って存在するのだろうか。

今皆さんが見ているパソコンのモニタも、ディスプレイや画面などと言い換えられる。パソコンを日本語で言うと電子計算組織だ。アイロンは西洋火熨斗(せいようひのし)だし、トランプは西洋かるたと呼ばれる。円を書くコンパスは「規」と書いて「ぶんまわし」という呼び方もある。

 つまりモノが一つあると、それには複数の呼び名があると思っていい。

「これ、いつもはこう呼んでるけど、他にどんな名前があったっけ」と考えてみると、電車の中でもお風呂の中でも退屈しないだろう。 

 

 

閑古鳥ってどんな鳥?

  

 閑古鳥でも鳴いているうちはまだいい。 本当に寂しい状況のとき、そう思ったことはないだろうか。閑古鳥の声すら聞こえないようだったら、空しいことこの上ない、と。

そう、閑古鳥が鳴くというのは「寂れていること、人がいないこと」を表す言葉だが、どんな鳥にせよ鳴いてくれるだけマシなのではないか。だが、閑古鳥はただいればよいというわけではなく、「閑古鳥が鳴いている」ことで初めて寂しい様を表す言葉になる。ということは、鳴き声が寂しい鳥だ。しかし、そんな「閑古鳥」ってどんな鳥だろう。果たして実在する鳥なのだろうか?

 

 鳴き声が寂しいといえば、まずカラスを思い浮かべる。 確かに、夕暮れ時のカラスの声は物悲しく聞こえる。しかしカラスは群れになることが多い。やはり、一匹だけの声が、しかもどこからともなく聞こえてくるのが最高に寂しいだろう。 この条件を満たす鳥とえいば− そう、これはカッコウなのである。 閑古鳥という名はカッコウの古い呼び方なのだ。カッコウは林や草原などに生息するホトトギス科の鳥で、日本全土で見ることができる。

 人気のない林の中で響き渡る「カッコー…カッコー…」の声は、確かに森閑とした情景を一層寂しく心細いものにする。

 松尾芭蕉の句には「憂きわれを さびしがらせよ 閑古鳥」と詠んだものがあり、閑古鳥は鳴くほど寂しさを引き立てるものだというのがよくわかる。

 

 小さな店などは、客がまったくいなければ注目されることもない。だが、そこに一人ばかりの客がいると逆に、「ああ、客いないな」となってしまう。店先でネコが昼寝していたり、店員が暇そうにしているような場合も同様だろう。

 もちろん一人でも二人でも、お客がいてくれるのはありがたい。そういう意味では、やはり閑古鳥であっても鳴いてくれるだけマシなのだろうか。

 

 

「ドジ」を踏む―何を踏んでいるのか?

 

 「ミスが多い人」「失敗が多い人」と言われれば落ち込むし腹も立つだろうが、「ドジな人」ならば笑い飛ばせてしまえるだろう。

自分のことを「ドジなもので」などと軽く自嘲していうこともある。 「ドジ」には、失敗はするけれども許せてしまう、笑えてしまう、そんなニュアンスが含まれているようだ。

 

 だが、これが「ドジを踏む」というとまた少し感じが変わってくる。「あいつはまたドジを踏んだ」「仕事でドジを踏んだ」といたようにいくらかトゲのある言葉になってくるのだ。 どうも、「ドジ」は踏むとまずいものらしい。 では、踏んではいけない「ドジ」とはなんのことなのだろうか。

 

 「ドジ」は「土地」という語が変化したものだといわれる。昔は、相撲で土俵の外に足がついて負けてしまうことを「土地を踏む」といった。それがドチを踏む―ドジを踏む、と転化してしていった。

ここから転じて、失敗することをドジを踏むというようになったのだ。

 力士にとって土俵際はまさに勝負の分かれ目となる生命線。どちらかが踏み超えなければならないものだが、それを「ドジを踏んだ」などと言われたらたまったものではないだろう。

 もっとも、ほんとにドジって足を滑らせて「ドジを踏んだ」のなら別だが…

 

 

「灯台下暗し」の間違い

 「身近の事情はかえって分かりにくいものである。」という意味のことわざ、あなたなら何を挙げるだろうか。恐らく「灯台下暗し」だろう。

私の父はズボンを履いたままズボンを探したり、メガネをかけたままメガネを探していることが時々あるが、これこそ灯台下暗し。―いや、これはただの天然ボケか。

 

 「灯台下暗し」は非常に有名なことわざなので、子供から年寄りまで多くの人に知られている。

 だが、あなたは勘違いしていないだろうか。「灯台」の意味である。

このことわざでいっている「灯台」とは、イラストにあるような船の目印になる岬の「灯台」では、

ない。

 さあ、今まで間違って覚えていた方は脳の回路を繋ぎ変えていただきたい。

「灯台下暗し」の「トウダイ」、実は「灯明台(とうみょうだい)」のことを指している。 

灯明台とは昔使われていた、油やろうそくを燃やして明かりとする室内照明具のこと。「燭台(しょくだい)」とほぼ同じ意味だ。

 灯明台の芯に火をつけて辺りを明るくしても、台の足元は暗くなっている。暗い部屋でろうそくをつけて見ればこのことがよく分かるだろう。このことから、現在使われているような意味に転じたわけだ。

 書くときはもちろん「灯台下暗し」で間違いではない。しかし、意味はしっかりと覚えておくようにしたい。ちなみに、岬のトウダイのことは「燈台」と書くほうがどちらかといえば、正しい。

 

 それにしても、「灯台」そのものの意味を間違って覚えていたとしたら、それこそ灯台下暗しである。

 

 

賞状に句読点がないのはなぜか

 私はこれまで「賞」というものをもらった経験がほとんどない。

なにやら小学校のときに親に手伝ってもらって描いたポスターが入選したような記憶があるが、それ以降これといって賞をもらっていない。

だから、スポーツや芸術に秀でた方の部屋に並んでいる賞状が、なにやら眩しく見えてくるものである。

 

 ところで、この賞状また感謝状などには句読点がないのである。前述したように手元にそんなものは一枚もないが、他の人のを見せてもらうと確かにない。 これはなぜだろうか。

賞状のレイアウトを見てみると、句読点を入れることによってなんとなく品位が落ちるのは分かる気がする。だが、理由はそれだけではない。

 

 そもそも、日本には文に句読点を入れるという習慣はなかった。句読点の入った文書が見受けられるようになるのは明治も30年代になってからである。西洋から、コンマやピリオドを入れるといった風習が輸入され、その反映として句読点が使われるようになったのである。

 では、なぜ句読点を使う必要が出てきたのか。これは、中国の漢文と関係があるらしい。

 皆さんも学校で習ったと思うが、「国 破レテ 山 河 在リ…」といった漢文には「レ点」「一二点」「上中下点」といった「返り点」が使われる。その系統として文の区切りや終わりを示す句読点が挙げられるのだが、慣れてくればこういった補則符号は必要ない。つまり、「符号を使う=学のない人」という図式ができてしまうのだ。

 

もちろん、句読点を使えば読みやすい文が書けるのだから一般の人が使う分には問題ない。

だが、賞状や感謝状といったものに使うとその人を見下す感じになってしまう、というわけだ。

つまり、賞状に句読点がないのは相手に敬意を表すため、と言えるだろう。

 

 ちなみに賞状などの宛名は「何々 殿」となっているが、「殿」は「様」よりも一ランク下の表現。

これは賞状を発行するほうが目上ということになるのだから、正しい使い方である。だが「殿」を手紙で使うと、礼を欠いた印象を与えかねないので気をつけよう。

 

 

「侘び」「寂び」の違い

  日本という国には、独特な感情や感性がある。 中でも、「侘び、寂び」は代表的な感性といえるだろう。 よく使われる言葉だが、では「侘び」「寂び」の意味を説明してみろと言われると困ってしまう。 なんとなく寂しい様子や枯れた雰囲気を表すのは分かるのだが、両者の明確な違いはどうも釈然としない。 ここは日本人として、「侘び」「寂び」の正しい意味を理解しておく必要がありそうだ。

 

  まずは「侘び」だが、これは「侘ぶ」という動詞が名詞化したもの 。「侘ぶ」には気落ちした様子やがっくりした様子、また閑居な地で生活するといった意味がある。 

そして、「侘び」という語は一般的には俳諧、とくに芭蕉の蕉風俳諧の美的理念なのである。

  落胆や失意の中に感じる、深い感情や情緒、味わいといったもの、それが「侘び」である。

これを受けて、芭蕉の句には寂しさや悲しみ、諦観といったものが表れている作品が多い。

「ものいへば 唇寒し 秋の風」  「夏草や つはものどもが 夢の跡」

「父母の しきりに恋し 雉の声」  「初しぐれ 猿も小蓑を ほしげ也」

といった句には芭蕉の「侘び」の精神が滲み出ているといえるだろう。 

 

  「寂び」は侘びの概念を更に発展させたものとも考えることが出来る。

賑やかな様子や豊かなもの、美しいものが閑寂になり、枯れたときに見いだす深いおもむき、それが「寂び」である。たんに寂しい、悲しい、孤独といった感情ではなく、そこに深い豊かさが伴わなくてはならなず、「侘び」と対をなす。

  例えば、人が大勢出て賑わったお花見。やがて花が散ってゆき、それも終わる。ひところの華やかさは幻のように消えうせる。そこに漂う一種の哀愁、寂寥、閑静といった感情。これが「寂び」と言えるだろう。 ノスタルジーや懐古主義とは近似をなしながらも一線を画す。まことに奥深い、日本ならではの豊かな感情だ。

 

  以上から、簡単に言えば「侘び」と「寂び」の違いは、 「侘び」は人の感情の中に情趣を見いだすもの。そして物事の様子から寂しさや深いおもむきを感じるのが「寂び」ということになる。

  だが、これはかなり簡略化した説明だ。実際の「侘び」「寂び」の持つ深い意味は、あなたの心で感じ取るしかないかもしれない。

 

  侘び、寂びを感じ取れる事象は身近に無数存在する。ただ見逃しているだけなのだ。

心のアンテナの向きをちょっと変えて、この深い感情を豊かに感じ取れる人間になりたいものである。

 

 

「右」の定義

 突然だが、ちょっとパソコンから目を離して、「右」という言葉の定義を考えていただきたい。「右」という言葉を全く知らない人にも分かるように、である。

 

 …実際にやってみるとこれが意外と難しいことに気付くだろう。

「お箸を持つほう」という説明は左利きの人には通用しない。右手を出して「こっちのほう」ということはできるが、対面していない相手には効果がない。 半ばやけになって「右は右だ」としか言えなくなってくるのではあるまいか。

  ではここで、定義の達人「広辞苑」に登場していただこう。最高権威の辞典はこの難しい定義をどうクリアしているのか。

 

  [みぎ] 南を向いた時、西にあたる方。⇔左。

 

 なるほどその手があったか、と唸ってしまうようなうまい説明である。 だがどちらかといえば北を向いたときのほうが分かりやすい気がするが。なにゆえ南が視点なのか…

 まあそれはともかくこの問題、友人との会話でちょっと盛り上がれるものになること間違いない。覚えておいて損はないだろう。

 

 

「村八分」ってなにが八分?

  今ではそんなに耳にしなくなったが、少し前は「村八分にされる」あるいは略して「八分にする」などといった言い回しがよく使われた。 これは仲間はずれにする、ボイコットするといったといった意味で、今でいうシカトに近い言葉である。 

 

  この語は農村の古い慣習から生まれたといわれている。 村には十の行事があった。冠、婚礼、葬式、建築、火事、病気、水害、旅行、出産、年忌である。

そして村人が罪を犯した場合、村全体でこれらのうち実に八っつを絶ったのである。残る二つは葬式と火事。火事は本人のためというよりも、近隣に火を燃え広がらせないためだと考えられる。葬式は死んだらもう罪はないということなのだろう。だから、実質的に生きている限り全ての付き合いを絶たれると見て間違いない。

 

  なんとも厳しい制度だが、こういった制度によって村人の仲間意識は非常に強いものとなったのであろう。

 

 

将棋の歩の裏の「と」ってどんな意味?

 将棋をやらない方にはピンとこないかもしれないが、「歩」の駒の裏には「と」 のような文字が書いてある。

 将棋の駒は王将と金将以外、敵陣の三段目以上に進むと金将の動きができるようになり、これを「成(な)る」という。 ここから歩が成ることを「と金」などと呼ぶ。「成金」もここからきた言葉だろう。 

 「と金」に成った歩は金将と同じ動きができるが、相手に取られた時はただの歩兵に戻るため、戦略上非常に重要な駒となる。

 金と王以外の駒には、成って裏返しても元の駒がわかるように、赤文字で「竜」などそれぞれ書いてある。だが、分からないのが歩にある「と」の文字だ。

 

 実はあの文字は平仮名の「と」ではない。「金」という字を極端に崩して書いたものなのだ。 素人目にはどうしても「と」にしか見えないのだが…

 

 

「伊達男」って伊達政宗に関係が?

  伊達男といえばスタイルはよいがちょっと見栄っ張りで派手な男性の代名詞である。

  伊達とはもちろん独眼竜といわれた伊達正宗のことだが、正宗はそんなに派手だったのだろうか? 

正宗の遺体を調べると鼻筋の通った男前だったといわれている。 また行列の時にはことさら派手な格好をして人々を驚かせていた。 こんなわけだから、伊達政宗=伊達男の式は成立する。

しかし実は「ダテ」という言葉は正宗以前にもあったのだ。

 

  元は「男を立てる」などの「タテ」が変化したものだといわれ、そこに正宗の派手振りを見た庶民が「なるほど確かにタテ男だ」という掛け言葉で揶揄(やゆ)ったのだ。

  つまりもともとダテ男という言葉は存在し、正宗によってそれが波及したというのが真相である。

 

 

「マジ」のマジ!?な語源

 若い人なら少なくとも2日に一回は必ず使ってしまうであろう言葉が「マジ」だ。

世の中がそれほど信じられないというわけでもないだろうが、相づちの代わりとしてもなかなか汎用性の高い言葉なので愛用されている。

  この言葉の語源、普通は「まじめ」の「まじ」をとったものだとされている。なるほど、「それ真面目な話!?」が略されて「マジな話!?」かなり信憑性のある説である。もちろんこの説は正しいと思う。 いや、正しいのだろう。

だが、ここにひょっとしたら・・・という全く別の説が存在する。

 

  それは、打消推量の文語体である「まじ」からきたというもの。文語とは日本で古くに使われていた言葉だが、この中に「まじ」という助動詞が存在するのだ。

  文語の「まじ」には様々な意味がある。だが、その中でよく使われるのが打消推量、すなわち「・・・ナイダロウ」という否定の意味なのである。 そもそも「まじ」は不可能や禁止、否定を表わす語。今でも使われる言葉に「あるまじき行為」というのがあるが、あれは「あってはならない行為」のこと。つまり「まじ」が打ち消しに使われているのだ。 現在使われている「マジ」も「そんなことはないんじゃないの?」という軽い否定のニュアンスが含まれている。

  「まじ」の活用形は次のとおり。

 

 

  「まじ」が使われている書物には「ただ今は見るまじ」とある「枕草子」、「この事は更に御心より漏らし給ふまじ」という記述がある「源氏物語」など数多い。

これらの用法を見ていくと、「本当だろうか」ということを表わすのに「まじか」という言い方もあるのではないかと思われる。

  思うに、「マジ」がこれほど違和感なく市民権を得たのは、「まじ」という言葉自体が元来持つニュアンスを日本人として遺伝的に知っているからではないか。つまり、「マジ」は文語の「まじ」の下地の上に今の地位を築いたと言えるのだ。

 

 

雨ニモ負ケズ

 「雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ」で始まる宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」。

これは賢治の持ち歩いていた手帳に書かれたもので、日本人ならおなじみの文章だろう。だが、全文に触れる機会はあまりないかもしれない。

そこで今回は「雨ニモ負ケズ」の全文を紹介しよう。

 

 

雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク決シテ 瞋(いか)ラズ イツモシヅカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ 入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキノ 小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモ アレバ 行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ 稲ノ束ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクワヤ ソショウガアレバ ツマラナイカラ ヤメロトイヒ

ヒドリ(日照り)ノトキハ ナミダヲナガシ

サムサノナツハ オロオロアルキ

ミンナニ デクノボート ヨバレ

ホメラレモセズ クニモサレズ

サウイウモノニ ワタシハ ナリタイ

 

  いかがだろう。現代において、このようなことを実践できる人はほとんどいない。この文に現れている「謙遜さ」や「人に仕える精神」といった、かつて日本人にあった美徳も失われてきているのではないだろうか。

一日に玄米四合食べる必要はないが、賢治の精神を少しでも見習いたい。

  ちなみに私は、最後から3行目だけは実践していると胸を張ることができる。

 

 

聖書にはこんなに諺がある!

 「目から鱗が落ちる」「豚に真珠」「砂上の楼閣」これらの諺は多くの人がご存知だろう。

しかし、これの語源はといわれると首を傾げて固まってしまう人が多いのではないだろうか。特に「目から鱗が落ちる」なんてよく使うものの全く意味不明の言葉である。豚に真珠だってわざわざ豚に真珠を投げてやるような物好きがいるとも思えない。 ところが、これらの言葉の出展は意外や意外、聖書にあったのである。 聖書というと西洋的なイメージがあるかもしれないが、実は元々メソポタミア地方等東洋で書かれた物である。

 

  「目から鱗が落ちる」の出典は使徒9:18節だ。「するとすぐにその両目からうろこのような物が落ち、彼は視力を取り戻した。」とある。この場合物理的に落ちたようだが、現在は完全に理解するというような比喩で使われている。

 

  「豚に真珠」これはマタイ7:6節。「神聖なものを犬に与えてはなりません。あなた方の真珠を豚の前に投げてもなりません。彼らがそれを足で踏みつけ、向き直ってあなた方をかき裂くことのないためです。」 豚に真珠と同じ意味で猫に小判というのがよく使われるが、聖書の場合犬に神聖なものというところだ。だがちょっと語呂は悪い。

 

  「砂上の楼閣」日本語の聖書にこの表現が出てくるわけではない。そもそもこの言葉の出典は辞書を見ても載っていない。しかし恐らくマタイ7:26節ないしルカ6:49節辺りが元になっていると思われる。マタイ7:26節を途中から書くと、「わたしのこれらの言葉を聞いても行なわないものはみな、愚かな人に例えられるでしょう。それは砂の上に家を建てた人です。」とある。続く節には洪水によって砂上の家が悲惨な状態になることが描かれている。

 

  砂上の楼閣に建っている日本という国、いくら経済政策や中小企業援助をしても豚に真珠。早く目から鱗を落して欲しいものである。…うん、かなり無理があるな。やはりちゃんと考えてから書かないと、砂上の楼閣!?

 

 

「後の祭り」は本当にある

 

 チャンスを逃して後悔する事を「後の祭り」というが、この言葉よく考えるとヘンである。文法的には「祭りの後」が正しいのではないか? L・Fバウムに「オズの魔法使い」という有名な作品があるが、このオズとはエメラルドの都に住む奇術師の名前なので、「魔法使いのオズ」とでもすべきである。 まあどうでもいいことだが、これと同じ事が「後の祭り」にも言えるのではないか。

 

  ところが、これを詳しく調べてみるとこの慣用句に限ってはこの言い方が正しいのである。というのは、「後の祭り」は7月1日〜29日まで京都で行なわれるあの祇園祭の一部なのだ。 祇園祭の醍醐味はなんといっても山車と鉾車(ほこ)が繰り出される17日の山鉾だ。これを「前の祭り」と呼び、24日からを「後の祭り」と呼んで区別する。後の祭りには山鉾などは出ず、いまひとつ盛り上がらない。 そんなところからこの言い回しが生まれたわけだ。 

 

  ならば「後の祭り」なんてものを作るんじゃなかったと京都の人が嘆いても、それこそ後の祭りである。

 

 

「おもちゃ」の語源

  「おもちゃの日」というのがあるのをご存知だろうか。この日がいつかを知っていたら、相当のおもちゃ通か、あるいは「この日なんの日」マニアであると見て間違いない。 

 おもちゃの日は5月5日。子供の日、端午の節句と同じである。制定したのは日本玩具協会それに東京玩具人形問屋協同組合といったえらいマイナーな方々。子供の日だからおもちゃの日にもしてしまおうという、実に単純な発想である。

 

  ところで「おもちゃ」という言葉は頭の中で反芻してみても全く意味のわからない言葉である。「お」は接頭語だとして、「モチャ」ってなんじゃ?もしや外国語か ?とさえ思えてくる。

  実はこの言葉「玩ぶ」もてあそぶ、が元になっているとされる。もてあそぶというとなにやらいんぴな響きがあるが、これは「持って遊ぶ」の意味。 この言葉が紆余曲折を経て今の「おもちゃ」という言葉にまで変化したわけである。

 しかし、口に出して呟いてみるだけでなにやら遊ぶものという感じがしてくる。見事なネーミングである。

 

 

どら息子―「どら」ってなんだ?

 「このどら息子が!」といえば父親が遊び人の息子を勘当する時の常套句である。

しかし、この「どら」という語はなんだか今ひとつよく分からない。 サザエさんの一番の歌詞にも「お魚くわえたどら猫 追いかけて〜」と、これにはどら猫という言い回しが使われている。どらって一体なんなのだろう? そう、ドラえもんもどら猫をかけたものであろうから、密接なつながりがあるといえよう。アニメ好きの私としてはこの謎を解かずには置かれない。

 

  というわけで、広辞苑を開いてみると、「放蕩。道楽。また、道楽者。のら。」と味も素っ気もないコメントが並んでいる。ふむ、どうやら「のら」と同義語らしい。だがどら猫がのら猫になるのはいいとしても、どら息子がのら息子になるのはちょっとヘンな気がする。そう思って調べると、面白い説が見つかった。 遊郭の隠語からきているというものである。

 

  昔は時報に鐘を使ったが、このことを遊郭では「鐘を撞く」(つく)と「金を尽く」にかけたというのだ。つまり、客がじゃんじゃん金を使うようにという縁起言葉の隠語である。

そこから金をじゃんじゃん使い果たす、つまり「銅鑼(どら、すなわち鐘)を打つ」の銅鑼をとって「どら息子」という言い方が生まれたと言うことだ。現在使っている言葉にも遊郭で生まれたものは多い。充分に頷ける話である。

 

 

漢字の生い立ちを探ろう

  私たちが普段使っている漢字は、ほとんどがお隣中国からはいってきたものである。しかし例外として国字というものが結構ある。これは日本で作られた純国産の漢字だ。例えば、「辷る」(すべる)や「辻」(つじ)「榊」(さかき)「凩」(こがらし)「凪」(なぎ)「峠」(とうげ)そのほか魚偏のものなどまだまだある。 

  中国からきたものにせよ国字にせよ、その構成に注目してみると面白い。前述の榊はなるほど神様の木だし、風を意味する「几」に木でこがらし、同じく風が止むからなぎである。山の上下で峠と読ませるのはなるほどと思わせる。 

 

  漢字は元々象形文字が変化したものだ。だから、簡単な漢字はそのあらわす形をしている事が多い。「目」は我々の目の形をたてにしたものだし、山や川なんかはその典型である。 「弓」という字もそうであるが、「引」という漢字はどうか。弓の後ろに線が一本。これは紛れもなく弓のツルを「ひいて」いる状態である。

 さらに、「片」という漢字は生い立ちが面白い。 「木」という字の古字は「片」の字を左右対称にしたような形をしている。これを縦半分に割ってみると、当然のごとく「片」という字が出来上がるのだ。 「片方」の「片」は半分に割られた木だったのである。

 

  このように、普段何気なく使っている漢字もよく眺めてみると面白い発見があるものだ。一度じっくり観察してみてはいかがだろうか。

 

 

「かかし」たんぼに立ってなぜかかし?

  かかし―案山子と書く。「銀色の毛布つけた 田圃に ぽつり 雪をかぶって置きざられた 案山子が一人」と、 さだまさしが「案山子」の中で歌っている。だからどうしたと言われても困る。

 

 かかしとは田舎のたんぼのトレードマークとも言えるものである。黄金色に実った稲穂の中には、どうしてもかかしというアクセントが欲しい。かかしがあってこそ日本のたんぼで、かかしを立てるためにたんぼが存在するのである。―そんなことはどうでもいいが、このかかし 、目的は稲を狙う鳥などを追い払うためのもの。古くは肉などを焼いてその匂いで鳥獣を追い払っていたらしい。つまり、「かがし」から転じたものなのだ。しかし肉など焼いたらかえって匂いにつられてやってきそうな気もするが・・・多分じっくりと焼くのではなくいぶすようにしたのだと思われる。 しかしそれでは鳥がこないのはいいが人間様も近づきがたい。そこで今のように人形を立てるようになったというわけだ。

  最近ではCDを吊るしているが、あれはあれでなかなか効果があるようだ。 だが、やはり趣のある案山子が減ってしまうのは惜しい気がする。

 

 

挨拶の謎

 我々は一日のうち何度くらい挨拶をするだろうか。

「おはようございます」に始まり「いただきます」「ごちそうさま」「ありがとう」「ごめんなさい」「こんにちは」「宜しくお願いします」「失礼します」「どういたしまして」「こんばんは」「さよなら」「ただいま」「おやすみなさい」

まだまだある。普段ほんとに何気なく使う言葉だが、実際にどんな意味なのかちょっと考えてみたい。 

 

  「おはようございます」や「おやすみなさい」「失礼します」などはそのままだからいいだろう。「いただきます」これも問題ない。「ごちそうさま」これは御馳走様と書くが、馳走という言葉にはもともともてなすために忙しくするという意味がある。 色々してくれてありがとうという感謝をこめた言葉だ。 そのありがとう、漢字では「有難う」だが、もとは「有難いもの」つまり珍しいものをあらわす語だ。 枕草子にも「ありがたきもの」という段があり、なかなか見られないものを連ねている。 「ごめんなさい」は御免なさいの字が示すとおりで、責を免れさせてください、ご容赦くださいの意。

 

  「こんにちは」や「こんばんは」これらを「こんにちわ」「こんばんわ」と書くのは間違い。「今日はよいお天気ですね」とか続く言葉が略されているので「は」でなければおかしい。

 

 「よろしく」には様々な意味があるが、挨拶の場合「まあよしなに」といったところ。 「どういたしまして」は英語ではnot at all、何もしてませんと謙遜して言う言葉。英語圏でも同じような表現をするのが面白い。

 

  「さよなら」これをそのまま意味を取ろうとすると難しい。正しい言葉に直してみるとよくわかる。 丁寧に言うと「さようなら」だが、これは「では(左様なら)おいとまさせていただきます」ということなのだ。 話が終わって「へい、左様なら」というわけだから、帰っていく友人に「さよーならぁー」と手をふるのは本当はなんだかおかしい。 もっとおごそかに、落ち着いて言うべきセリフである。

というわけで、左様なら。

 

 

鉢合わせ−鉢を合わせてどうする?

 誰かにばったりと出くわしたことを「鉢合わせした」なんて言い方をする。 だが鉢合わせなんてちょっと考えてみればヘンな言葉である。

鉢ってあの植木鉢のことだろうか?だとしたら、そんなもの合わせてどうするのだろう。 

ここで、もう一つ鉢という語のつくものを思い出してもらいたい。「鉢巻き」である。小学生のときに運動会などでしめたアレだが、この言葉と照らし合わせると「鉢合わせ」の由来もおのずとわかってくる。

 そう、もうお分かりだと思うが、「鉢」には「頭、頭蓋骨」といった意味もあるのである。 鉢巻きはなるほど頭に巻くものだし、鉢合わせは、頭同士をぶつけそうになる状況ではないか。

 

  ちなみに、人間の頭蓋骨で作られた杯も実在する。なんとも悪趣味なアクセサリーだと思うが。

 

 

「あばら骨」と「あばら家」って関係ある?

 「肋骨」なんと読むだろうか。十中八九「ろっこつ」と読まれるのではないだろうか。 もちろん、ろっこつであっている。正しい答えである。だが、私はこれを別な読みで打ちこみ変換した。   「あばらぼね」である。つまりあばら骨はろっこつの別称だ。 

 

  あばらといえばもう一つ思い浮かぶのが「あばら屋」という言葉。漢字では「荒屋」と書き、荒れすさんだ家、つまりぼろい廃屋という意味。また、あずま屋と同じく休憩所を意味する場合もある。 では、このあばら骨とあばら屋の「あばら」どういう意味なのだろうか。

 

  実は、あばらは「疎」とも書く。家がまばらにあるの「まばら」と同じ意味で、同じ漢字だ。つまり、あばらとは「すきまの多い」という概念が根底にあるのだ。あばら骨は空疎になっているし、あばら屋は風ふきっさらしですきま風が入ってくる。 だから、この二つの言葉に「あばら」が使われているのは至極当然なのである。

 

 

「サイレン」とはギリシア神話から

 サイレンは英語で[siren]と書く。意味は知ってのとおり、救急車やパトカー、時報などに使われるあれである。

 外来語の中にはギリシャ神話などに由来するものが結構ある。

例えば台風のことをサイクロンというが、あれはギリシア神話に登場する巨人族のサイクロプス(キュクロプス)からきているといわれる。この巨人は一つ目なので、それと台風の目をかけたのかもしれない。 

 

  これと同じようにサイレンは、ホメロスの「オデュッセイア」に登場する半人半鳥の怪物「セイレーン」が転化したもの。セイレーンは美しい歌声で船人をおびき寄せ、命を奪っていた。 これはまさに人魚伝説そのものである。実際、羽を持った人魚のような姿をしているとする文献もある。

  オデュッセイアでは、 主人公のオデュッセイアはサイレーンの魔力から逃れるために水夫たちの耳に蝋を詰めさせ、自らを帆柱に縛り付けて無事妖怪から逃れる事が出来たという。 一方、誘惑が通用せず絶望したサイレーンは、海に身を投じて石になってしまった。

  なんだか悲しい物語だが、私たちが耳にする時報のサイレンは時に、悲しみにくれる妖怪の叫びに聞こえてくる気がする。

 

 

二束三文ってなにが「二束」?

 「バザーで茶碗を二束三文の値段で買ってきた」というように極めて安い価格で捨て売りされているときに使われるのが「二束三文」。

 

  三文というのは昔のお金で、江戸時代の寛永通宝一枚が一文。 そこでこの「二束」だが草履(ぞうり)の二足を意味する。 

江戸時代の金剛草履がこのようにして売られていたことから出た言葉だといわれている。

金剛草履というのはわらなどで編んだ丈夫な草履で、金剛石(ダイヤモンド)のように硬く長持ちするという事からこの名がついた。

 

  今ならさしずめバナナの叩き売りが「二束(ふたたば)三十円」といったところか。もっともバナナの叩き売りなんて懐かしい光景、最近はまずお目にかかることができない。

 

 

西向く侍って何のこと?

 「にしむくさむらい」という言葉をご存知だろうか。若い人はあまり聞いたことが無いかも知れないが、お父さんお母さんの年代ならきっと知っているはずだ。 西向く侍と言っても文字通りの侍のことでは、もちろんない。

  実はこれは31日がない月の覚え方なのだ。

つまり 「に」2月、「し」4月、「む」で6月、「く」9月、そして11月だが、侍こと「士」を十一と読んで11である。「士」という漢字は一文字で「さむらい」とも読むのだ。

 

  この覚え方は確かに便利なのだが、ふとすると「あれ、31日のある月の覚え方だっけ、ない月の覚え方だっけ?」ということになってしまいやすい。そんなときは30日もない2月を思い出せばよい。2月はいつでも28か29日までだから、31日がない月のおまじないだ、とすぐわかるというわけだ。

 

 

酒の肴−魚と関係があるのか?

 最近はビールを飲む人が増えたためか、「肴」さかな、という言葉をあまり耳にしなくなった。ビールでいうおつまみのことを、とくに日本酒や焼酎などに添えるときは肴という。 酒はぬるめの燗で肴はあぶったイカでいいとか唄われているが、なるほど日本酒には魚介類のつまみがよくあう。  ということは、単純に魚→肴と転じたものなのなのか?ところが実は全く逆なのである。

 

  古く、「肴」は「酒菜」と書いた。字義的に考えて野菜のみを指すのかと思ってしまうが、この「菜」には野菜はもちろんのこと鳥や獣、魚等も含まれている。つまり酒のおかず全般を「酒菜」と呼んだのである。ちなみに、おかずのことを漢字では「お菜」と書く。

  この「肴」の代表的なものが魚介類、つまり「魚」であった。そのため、「肴」から「魚」の「さかな」という読みが生まれたといわれている。

 

  今宵の晩酌は、こんなウンチクを傾けながら日本酒でも一杯、どうだろうか。

 

 

刺し身―どう見ても切り身なのに?

 

 私はマグロの刺し身が好物である。寿司もマグロの赤身が一番好きだ。それも回転寿司の一皿100円タイプのものが一番おいしく思うのだから、安上がりな舌である。

  それにしても、刺し身というものはマグロにせよイカにせよ、どうみても「切り身」の気がする。

卵やイクラは論外としても、普通の魚は切り身という方が正しいのではないか。

 

  だが、これを刺身というのにはちゃんと訳がある。 想像していただきたいが、赤身白身を問わず様々な魚の切り身を皿に盛られて、種類を全て当ててみろといわれたらどうだろう。料理人なら別だが、分かる人はそうそういないのではないだろうか。   そのため、かつては魚の切り身を出す場合、その魚のヒレを身に刺して提供していた。それが即ち「刺し身」である。それがいつの間にか本来の「刺し身」が消えうせ、名前だけが残ってしまったというわけだ。 恐らくわざわざヒレを置かなくても大体の人が分かるようになったからだろう。

  こんなことを書いていたら、ああ、寿司が食べたくなってきた。

 

 

グレープフルーツ、ぶどうとどんな関係が?

 朝の食卓によくあうグレープフルーツ。グレープとは言うまでもなくぶどうのことだ。

直訳すると「ぶどうの果実」、これはもう両者に関連がないと見るほうが難しい。

しかし見た感じぶどうとグレープフルーツは全く似ていないし、種類も違う。一体どこに共通項があるのだろう。 

 

  これは店頭で売られているものを見たのでは分からない。収穫前のグレープフルーツを見ると一目瞭然。 というのもグレープフルーツはぶどうのように房状に実がなるのだ。

  普通のみかんは一つ一つ枝になるが、グレープフルーツは巨大なぶどうのように実をつける。そんなところから、「グレープフルーツ」の名が生まれたのだ。

グレープフルーツほどもあるようなばかでかいぶどうがあったら是非食べてみたいものだ。

 

 

「じゃがいも」の由来

 高速道路の サービスエリアに「じゃがべー」という食べ物がある。「ベーコン男爵」という場合もあるが、大体同じものだ。私はあれが大好物で、高速道路を走るときには必ずサービスエリアによって買う事にしている。アツアツのじゃ がいもにベーコンをはさみ、マーガリンをつけて食べるのだ。 マーガリンやベーコンも大事だが、うまさを決めるのはなんといってもじゃがいもだ。

 

  さて、そのじゃがいもだが原産はあのインカ帝国だといわれている。インカを征服したスペイン人によってヨーロッパにもたらされそこから全世界に広まった。 日本にはいってきたのは1600年頃とかなり古い。 じゃがいもの名は現在のジャカルタである「ジャガタラ」から持ち込まれたという説が信じられているがどうだろう。 ジャワのジャガトラ港から長崎にはいってきて「ジャガタライモ」とされたという説もある。いずれにせよ「ジャガ」のつくどこからか持ち込まれたのは間違いないようだ。

 

  じゃがいもの芽にはソラニンという毒が含まれている事は有名だが、この毒は茎や葉にも存在する。迂闊に口に入れないよう注意して欲しい。

 

 

「かぼちゃ」の由来

 かぼちゃは漢字で南瓜と書く。読んで字のごとく南方の国から伝えられた。ああ見えてウリ科の植物である。

  かぼちゃは日本かぼちゃ、西洋かぼちゃ、ペポかぼちゃの三種に大別されるが、いずれも原産は中央アメリカからメキシコあたり。

 

  日本に始めてかぼちゃがもたらされたのは1540年頃、天保年間といわれ、漂着したポルトガルの船からカンボジア産のかぼちゃが送られた。 これが日本かぼちゃである。  まあ、かぼちゃ=カンボジアと思っていれば大体間違いない。

 

  ちなみに悪口で「土手かぼちゃ」というのがあるが、これは文字通り土手に生えたかぼちゃのこと。「土手かぼちゃ」は畑に植えられず肥料も少ないので食用に適さないかぼちゃになってしまう。そんなところから「役に立たない」との悪口に使われるようになった

  かぼちゃを使った料理はパイやコロッケなど幅広くあるが、なんといっても天ぷらがおいしい。−ていうか植物の研究だな、これ。

 

 

「もなか」ってよく考えると何?

 今はアイスにもアイスもなかというのがある。板チョコのように割って分けて食べられるのでなかなかの人気だ。 もなかは「最中」と書くが、一体なんの「さいちゅう」なのだろう。

  アイスの場合の最中とは皮のことを指しているが、最中というのが元々あの皮のことだとおもったら間違い。 最中のルーツは江戸時代にある。

  江戸時代中期、吉原にある和菓子屋「竹村伊勢」で円形の菓子を売り出した。それが十五夜の満月を意味する「最中」の形に似ている所から「最中の月」と呼ばれそれが「最中」になったのである。 最中はもとはといえば月の形をあらわす語だったのだ。 

 

  最中といえば中につぶあんやこしあんなど色々なあんが入っているが、通はあんよりも皮を好む。 昔の最中はごくわずかしかあんが入っていなかったのだ。

どうです、本物の最中が食べたくなってきたでしょう?

 

 

「けんもほろろ」−はたして元々の意味は?

 日本語というのは面白いもので、普段何気なく使う言葉なのに元々の意味が全くわからないという言葉が少なくない。

  この「けんもほろろ」もその好例だろう。

「けんもほろろの挨拶だね」というように無愛想でつっけんどんな態度を表すときに用いられる慣用句であるが、よく考えると元々の意味がさっぱりわからない。

「けん」は「剣」ともとれる。では「ほろろ」は剣が刃こぼれしてほろほろと落ちる様を表しているのだろうか?いやいや、全く違う。実はこの言葉、キジの鳴き声から来ているという。

 

  キジといえば昔から日本ではよく歌や物語に登場する。「古事記」にはナキメというキジが登場するし(すぐ殺されてしまうが)「雉も鳴かずば」という悲しい昔話も広く伝えられている。加藤楸邨(しゅうそん)の句「雉子の眸(め)のかうかうとして売られけり」も有名だ。・・・ん?なんかこれらの話、みんな雉が死んでしまうではないか。まあ、いいか。

 

  さて、肝心のキジの鳴き声だが本当に「けん、ほろろ」と聞こえるのだろうか?キジの鳴き声はよく「ケーンケーン」と表記される。また、「ホロホロホロー」と書かれる事もある。どこかでこういう表現をご覧になった方もおられるのではなかろうか。実際にそう聞こえるのかというといささか疑問が残るかもしれないが、いずれにせよキジの鳴き声はかなり無愛想に聞こえるものらしい。そこからキジの鳴き声が無愛想な様子を指すようになったということだ。

  恐らく元々の話し言葉としては「訪ねてみたが、けーんほろろだ」とでも言っていたのだろう。それがいつしか転訛して今の発音になったと思われる。

  「けんもほろろ」な対応には困ったものだが、キジが鳴いていると思えばあまり腹も立たないかもしれない?

 

 

おじゃんになる―おじゃんって一体?

 デジタル化時代では、データを蓄積するのも容易だが失うのもまた簡単である。苦労して作り上げた原稿などがちょっとした手違いで「おじゃん」ということは珍しくない。

 

  おじゃんとはご存知のとおり物事が一瞬でパーになることをいう。聞いただけで「ああ、なんかおじゃんだな」とイメージが伝わってくる語なのだが、冷静に考えると意味不明の言葉である。おじゃんの「お」は接頭語だとして残るは「じゃん」だけじゃん。

  実はこの「じゃん」は擬音語で鐘、それも半鐘の音なのだ。半鐘(はんしょう)といえば火事のときにじゃんじゃんと打ち鳴らす、あれである。 そう、このじゃんじゃんという音から「おじゃん」は生まれた。 すべてを無に帰させてしまう火事、それを連想させるものとして半鐘の音が代表的だったのだろう。

  火事になってなにもかも「おじゃん」になってしまわないよう気を付けたいものだ。火事に比べればデータくらい・・・ブルルッ

 

 

玄人と素人―どう考えても読みが違うが?

 げんじんとすじんではない。くろうととしろうと、と読む。両方とも何気ない顔してなかなかの当て字である。だがこれほど当て字ということを意識させない当て字も珍しい・・・とつまらないことで感心してしまうのは私だけだろうか。

 

  さてこれをまともに書けば黒人白人、となる。人種になってしまうが、この黒白というのは実は囲碁の石のことだ。 現在の囲碁の慣習では上位者の方が白石を持つ。囲碁の白石は高級品は蛤から作られている場合が多く、強いものが白を持つのは当然である。  だがこれでは「しろうと」の方が強いことになってしまうではないか?

実は鎌倉時代までは黒石の方が高級品で、強い人の方が黒を使ったのだ。その名残が今も続いているというわけだが、これには白石を持つ人が気を悪くするのであえて逆転させたという意味もあるのかもしれない。

 

  ちなみに碁石は白よりも黒の石が若干大きめに作られている。これは白の方が光を反射しやすいので、同じ大きさだと白のほうが大きく見えてしまうためだ。 石一つとってもなかなかどうして奥が深いではないか。

 

 

ビー玉の「ビー」ってなに?

 今の小さい子はビー玉の本当の遊び方を知らないのではないだろうか。トイレに飾るものかせいぜい綺麗なガラス玉としか思っていない気がする。 本来ビー玉は玉同士をぶつけ合い、ぶつけた人が相手の玉をとることができるというルール。まあ、おはじきと大して変わらない。

 

  さて、気になるビー玉の「ビー」これはガラスを意味する「ビードロ」を略したもの。ビードロはポルトガル語で「vidro」と書く。 つまりビー玉は外国からわたってきたものだ。

  前述の遊び方も日本特有のものではなく様々な国に存在する。 だから時々外国の小説なんかにもビー玉遊びの記述が登場し、新鮮な印象を受ける。

  まあ今はビー玉なんかで遊ぶ世の中でもないのだろうが、切花をいけるときには綺麗なガラス瓶にビー玉を入れて花を挿すと美しい。是非ご家庭でも工夫して利用方法を見つけてもらいたいものだ。

 

 

鬼の霍乱−霍乱って何だ?

 おにのかくらん―知る人ぞ知るといった感じのマイナーな慣用句だが、意味をご存知だろうか。

  これは普段健康な人が突然病気になること。

「あの部長が胃潰瘍とは、鬼の霍乱だね」のような使い方をする。鬼が何らかの症状を起こすという事はなんとなく判るだろうが、さて霍乱とは一体なんだろうか。 次から選んでいただきたい。

A:風邪

B:脳震盪

C:日射病

D:歯痛

E:腹痛

 

       ↓↓をドラッグすると答えが出てくる

答えはCの日射病である。お判りになっただろうか。なるほど鬼がそれになったのでは確かに様にならない・・・

 

 

鬼の居ぬ間に洗濯―なぜ洗濯するの?

 上司がいないときにちょっと羽を伸ばしたりとか、親がいない間にテレビゲームをしたりなんていうのを「鬼の居ぬ間の(に)洗濯」という。

怖い存在を鬼に例えるのはよくわかるのだが、なぜ洗濯をしなければならないのだろう。 まさか鬼が洗濯をさせてくれないとでもいうのだろうか。

 

  実はこの洗濯とは一般に使われるような衣服を洗うことではない。

「命の洗濯」なのだ。 「命の洗濯」も苦痛続きだったがしばし解放されたときなどを表現するのに使われる語。また「海外旅行で命の洗濯をする」など気分転換をはかるときもよく用いられる。

 

  鬼の居ぬ間に命を洗濯というわけだが、まさに命を洗濯したいと嘆く方も多いのではないだろうか。

 

 

呉越同舟って実はいい言葉!

 皆さんは仲の悪いもの同士を指す言葉としてどんなものを思い浮かべるだろうか。まずは「犬猿の仲」「呉越同舟」といったところだろう。

 ではこの「呉越同舟」がどんな意味かと聞かれたら、「同じ船に仲の悪い呉の人と越の人が乗っていて、もう最高に中の悪い様子」なんて答えるのではないだろうか。 確かにそのとおり。同じ船に呉と越の人が乗っていていがみあっている―のだが、この話には続きがあるのだ。

 

 そもそもこの言葉、兵法の書「孫子」の第十一篇「九地」に由来している。

その文章は要約すると「呉人と越人は互いにいがみ合っているが、偶然乗り合わせた舟が突風に遭ったなら舟がひっくり返されるのを防ごうとして、まるで左右の手のようにお互いに力を合わせて事にあたる」というものだ。 

 

  そう、この故事は実は「いつもは憎みあっているもの同士が危機に直面したとき、団結して事にあたる」様子を表したものなのなのだ。つまり、普段に使っている「呉越同舟」という語は誤解されていたことになる。

  映画などで初めは敵同士だった人物が危機を乗り越えるにつれて親密になる、というシーンがよくある。あれこそ本当に「呉越同舟」というべきなのだろう。

 

 
     
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