言葉の研究

刺し身―どう見ても切り身なのに?

私はマグロの刺し身が好物である。寿司もマグロの赤身が一番好きだ。それも回転寿司の一皿100円タイプのものが一番おいしく思うのだから、安上がりな舌である。
それにしても、刺し身というものはマグロにせよイカにせよ、どうみても「切り身」の気がする。
卵やイクラは論外としても、普通の魚は切り身という方が正しいのではないか。
だが、これを刺身というのにはちゃんと訳がある。 想像していただきたいが、赤身白身を問わず様々な魚の切り身を皿に盛られて、種類を全て当ててみろといわれたらどうだろう。料理人なら別だが、分かる人はそうそういないのではないだろうか。
そのため、かつては魚の切り身を出す場合、その魚のヒレを身に刺して提供していた。それが即ち「刺し身」である。それがいつの間にか本来の「刺し身」が消えうせ、名前だけが残ってしまったというわけだ。 恐らくわざわざヒレを置かなくても大体の人が分かるようになったからだろう。
こんなことを書いていたら、ああ、寿司が食べたくなってきた。
グレープフルーツ、ぶどうとどんな関係が?

朝の食卓によくあうグレープフルーツ。グレープとは言うまでもなくぶどうのことだ。
直訳すると「ぶどうの果実」、これはもう両者に関連がないと見るほうが難しい。
しかし見た感じぶどうとグレープフルーツは全く似ていないし、種類も違う。一体どこに共通項があるのだろう。
これは店頭で売られているものを見たのでは分からない。収穫前のグレープフルーツを見ると一目瞭然。 というのもグレープフルーツはぶどうのように房状に実がなるのだ。
普通のみかんは一つ一つ枝になるが、グレープフルーツは巨大なぶどうのように実をつける。そんなところから、「グレープフルーツ」の名が生まれたのだ。
グレープフルーツほどもあるようなばかでかいぶどうがあったら是非食べてみたいものだ。
「じゃがいも」の由来

高速道路のパーキングエリアに「じゃがべー」という食べ物がある。「ベーコン男爵」という場合もあるが、大体同じものだ。私はあれが大好物で、高速道路を走るときには必ずパーキングエリアによって買う事にしている。アツアツのじゃ
がいもにベーコンをはさみ、マーガリンをつけて食べるのだ。 マーガリンやベーコンも大事だが、うまさを決めるのはなんといってもじゃがいもだ。
さて、そのじゃがいもだが原産はあのインカ帝国だといわれている。インカを征服したスペイン人によってヨーロッパにもたらされそこから全世界に広まった。 日本にはいってきたのは1600年頃とかなり古い。 じゃがいもの名は現在のジャカルタである「ジャガタラ」から持ち込まれたという説が信じられているがどうだろう。 ジャワのジャガトラ港から長崎にはいってきて「ジャガタライモ」とされたという説もある。いずれにせよ「ジャガ」のつくどこからか持ち込まれたのは間違いないようだ。
じゃがいもの芽にはソラニンという毒が含まれている事は有名だが、この毒は茎や葉にも存在する。迂闊に口に入れないよう注意して欲しい。
「かぼちゃ」の由来

かぼちゃは漢字で南瓜と書く。読んで字のごとく南方の国から伝えられた。ああ見えてウリ科の植物である。
かぼちゃは日本かぼちゃ、西洋かぼちゃ、ペポかぼちゃの三種に大別されるが、いずれも原産は中央アメリカからメキシコあたり。
日本に始めてかぼちゃがもたらされたのは1540年頃、天保年間といわれ、漂着したポルトガルの船からカンボジア産のかぼちゃが送られた。 これが日本かぼちゃである。
まあ、かぼちゃ=カンボジアと思っていれば大体間違いない。
ちなみに悪口で「土手かぼちゃ」というのがあるが、これは文字通り土手に生えたかぼちゃのこと。「土手かぼちゃ」は畑に植えられず肥料も少ないので食用に適さないかぼちゃになってしまう。そんなところから「役に立たない」との悪口に使われるようになった
。
かぼちゃを使った料理はパイやコロッケなど幅広くあるが、なんといっても天ぷらがおいしい。−ていうか植物の研究だな、これ。
「もなか」ってよく考えると何?

今はアイスにもアイスもなかというのがある。板チョコのように割って分けて食べられるのでなかなかの人気だ。 もなかは「最中」と書くが、一体なんの「さいちゅう」なのだろう。
アイスの場合の最中とは皮のことを指しているが、最中というのが元々あの皮のことだとおもったら間違い。 最中のルーツは江戸時代にある。
江戸時代中期、吉原にある和菓子屋「竹村伊勢」で円形の菓子を売り出した。それが十五夜の満月を意味する「最中」の形に似ている所から「最中の月」と呼ばれそれが「最中」になったのである。 最中はもとはといえば月の形をあらわす語だったのだ。
最中といえば中につぶあんやこしあんなど色々なあんが入っているが、通はあんよりも皮を好む。 昔の最中はごくわずかしかあんが入っていなかったのだ。
どうです、本物の最中が食べたくなってきたでしょう?
「けんもほろろ」−はたして元々の意味は?

日本語というのは面白いもので、普段何気なく使う言葉なのに元々の意味が全くわからないという言葉が少なくない。
この「けんもほろろ」もその好例だろう。
「けんもほろろの挨拶だね」というように無愛想でつっけんどんな態度を表すときに用いられる慣用句であるが、よく考えると元々の意味がさっぱりわからない。
「けん」は「剣」ともとれる。では「ほろろ」は剣が刃こぼれしてほろほろと落ちる様を表しているのだろうか?いやいや、全く違う。実はこの言葉、キジの鳴き声から来ているという。
キジといえば昔から日本ではよく歌や物語に登場する。「古事記」にはナキメというキジが登場するし(すぐ殺されてしまうが)「雉も鳴かずば」という悲しい昔話も広く伝えられている。加藤楸邨(しゅうそん)の句「雉子の眸(め)のかうかうとして売られけり」も有名だ。・・・ん?なんかこれらの話、みんな雉が死んでしまうではないか。まあ、いいか。
さて、肝心のキジの鳴き声だが本当に「けん、ほろろ」と聞こえるのだろうか?キジの鳴き声はよく「ケーンケーン」と表記される。また、「ホロホロホロー」と書かれる事もある。どこかでこういう表現をご覧になった方もおられるのではなかろうか。実際にそう聞こえるのかというといささか疑問が残るかもしれないが、いずれにせよキジの鳴き声はかなり無愛想に聞こえるものらしい。そこからキジの鳴き声が無愛想な様子を指すようになったということだ。
恐らく元々の話し言葉としては「訪ねてみたが、けーんほろろだ」とでも言っていたのだろう。それがいつしか転訛して今の発音になったと思われる。
「けんもほろろ」な対応には困ったものだが、キジが鳴いていると思えばあまり腹も立たないかもしれない?
おじゃんになる―おじゃんって一体?

デジタル化時代では、データを蓄積するのも容易だが失うのもまた簡単である。苦労して作り上げた原稿などがちょっとした手違いで「おじゃん」ということは珍しくない。
おじゃんとはご存知のとおり物事が一瞬でパーになることをいう。聞いただけで「ああ、なんかおじゃんだな」とイメージが伝わってくる語なのだが、冷静に考えると意味不明の言葉である。おじゃんの「お」は接頭語だとして残るは「じゃん」だけじゃん。
実はこの「じゃん」は擬音語で鐘、それも半鐘の音なのだ。半鐘(はんしょう)といえば火事のときにじゃんじゃんと打ち鳴らす、あれである。 そう、このじゃんじゃんという音から「おじゃん」は生まれた。 すべてを無に帰させてしまう火事、それを連想させるものとして半鐘の音が代表的だったのだろう。
火事になってなにもかも「おじゃん」になってしまわないよう気を付けたいものだ。火事に比べればデータくらい・・・ブルルッ
玄人と素人―どう考えても読みが違うが?

げんじんとすじんではない。くろうととしろうと、と読む。両方とも何気ない顔してなかなかの当て字である。だがこれほど当て字ということを意識させない当て字も珍しい・・・とつまらないことで感心してしまうのは私だけだろうか。
さてこれをまともに書けば黒人白人、となる。人種になってしまうが、この黒白というのは実は囲碁の石のことだ。 現在の囲碁の慣習では上位者の方が白石を持つ。囲碁の白石は高級品は蛤から作られている場合が多く、強いものが白を持つのは当然である。
だがこれでは「しろうと」の方が強いことになってしまうではないか?
実は鎌倉時代までは黒石の方が高級品で、強い人の方が黒を使ったのだ。その名残が今も続いているというわけだが、これには白石を持つ人が気を悪くするのであえて逆転させたという意味もあるのかもしれない。
ちなみに碁石は白よりも黒の石が若干大きめに作られている。これは白の方が光を反射しやすいので、同じ大きさだと白のほうが大きく見えてしまうためだ。 石一つとってもなかなかどうして奥が深いではないか。
ビー玉の「ビー」ってなに?

今の小さい子はビー玉の本当の遊び方を知らないのではないだろうか。トイレに飾るものかせいぜい綺麗なガラス玉としか思っていない気がする。 本来ビー玉は玉同士をぶつけ合い、ぶつけた人が相手の玉をとることができるというルール。まあ、おはじきと大して変わらない。
さて、気になるビー玉の「ビー」これはガラスを意味する「ビードロ」を略したもの。ビードロはポルトガル語で「vidro」と書く。 つまりビー玉は外国からわたってきたものだ。
前述の遊び方も日本特有のものではなく様々な国に存在する。 だから時々外国の小説なんかにもビー玉遊びの記述が登場し、新鮮な印象を受ける。
まあ今はビー玉なんかで遊ぶ世の中でもないのだろうが、切花をいけるときには綺麗なガラス瓶にビー玉を入れて花を挿すと美しい。是非ご家庭でも工夫して利用方法を見つけてもらいたいものだ。
鬼の霍乱−霍乱って何だ?

おにのかくらん―知る人ぞ知るといった感じのマイナーな慣用句だが、意味をご存知だろうか。
これは普段健康な人が突然病気になること。
「あの部長が胃潰瘍とは、鬼の霍乱だね」のような使い方をする。鬼が何らかの症状を起こすという事はなんとなく判るだろうが、さて霍乱とは一体なんだろうか。 次から選んでいただきたい。
A:風邪
B:脳震盪
C:日射病
D:歯痛
E:腹痛
↓↓をドラッグすると答えが出てくる
答えはCの日射病である。お判りになっただろうか。なるほど鬼がそれになったのでは確かに様にならない・・・
鬼の居ぬ間に洗濯―なぜ洗濯するの?

上司がいないときにちょっと羽を伸ばしたりとか、親がいない間にテレビゲームをしたりなんていうのを「鬼の居ぬ間の(に)洗濯」という。
怖い存在を鬼に例えるのはよくわかるのだが、なぜ洗濯をしなければならないのだろう。 まさか鬼が洗濯をさせてくれないとでもいうのだろうか。
実はこの洗濯とは一般に使われるような衣服を洗うことではない。
「命の洗濯」なのだ。 「命の洗濯」も苦痛続きだったがしばし解放されたときなどを表現するのに使われる語。また「海外旅行で命の洗濯をする」など気分転換をはかるときもよく用いられる。
鬼の居ぬ間に命を洗濯というわけだが、まさに命を洗濯したいと嘆く方も多いのではないだろうか。
呉越同舟って実はいい言葉!

皆さんは仲の悪いもの同士を指す言葉としてどんなものを思い浮かべるだろうか。まずは「犬猿の仲」「呉越同舟」といったところだろう。
ではこの「呉越同舟」がどんな意味かと聞かれたら、「同じ船に仲の悪い呉の人と越の人が乗っていて、もう最高に中の悪い様子」なんて答えるのではないだろうか。 確かにそのとおり。同じ船に呉と越の人が乗っていていがみあっている―のだが、この話には続きがあるのだ。
そもそもこの言葉、兵法の書「孫子」の第十一篇「九地」に由来している。
その文章は要約すると「呉人と越人は互いにいがみ合っているが、偶然乗り合わせた舟が突風に遭ったなら舟がひっくり返されるのを防ごうとして、まるで左右の手のようにお互いに力を合わせて事にあたる」というものだ。
そう、この故事は実は「いつもは憎みあっているもの同士が危機に直面したとき、団結して事にあたる」様子を表したものなのなのだ。つまり、普段に使っている「呉越同舟」という語は誤解されていたことになる。
映画などで初めは敵同士だった人物が危機を乗り越えるにつれて親密になる、というシーンがよくある。あれこそ本当に「呉越同舟」というべきなのだろう。