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言葉の研究

言葉の研究

カマをかける―草刈り鎌のことなのか?
「互角」と「伯仲」の語源
実際の意味とはかけ離れた格言たち!
「手を染める」のに「足を洗う」のはなぜ?
覚えておくと面白い、モノの別名
閑古鳥ってどんな鳥?
ドジを踏む―何を踏んでいるのか?
「灯台下暗し」の間違い
賞状に句読点がないのはなぜか
「侘び」「寂び」の違い
「右」の定義
「村八分」ってなにが八分?
将棋の歩の裏の「と」ってどんな意味?
「伊達男」って伊達政宗に関係が?
「マジ」のマジ!?な語源
「こけし」の悲しい語源
「雨ニモ負ケズ」
聖書にはこんなに諺がある!
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言葉の研究

 

「カマをかける」―草刈り鎌のことなのか?

   

 「それでね、あの二人なんか怪しいと思ったから、ちょっとカマかけてみたのよ」―実際にこんな会話を耳にしたことはないが、いかにも事務職の女子社員がお茶汲み場で小声で話していそうな内容だ。

しかし、「カマをかける」という慣用句の語源まで把握して使っている人はそうはいないだろう。

なんとなくこの言葉、鎌で稲を刈り取る直前の様子を指しているようなイメージがある。さあ刈り取るぞ、という意思を表して、軽く脅しをかけているような印象だ。 ところが、調べてみるとこの「カマ」とはいわゆる草刈り鎌のことではないのだ。

 

 この言い回しが広く使われるようになったのは江戸時代からで、カマとは火をつけるために用いた鉄製の道具、火打鎌(ひうちがま)のことである。

火打金とも呼ばれる火打鎌には色々な形があるが、鎌の刃に形が似ていることから「鎌」の字が当てられているようだ。

当時、火をつける時は火打鎌で火打石を打って、火をいわば「さそいだした」。この事から、誘い出すよう、たくみに言葉をかける意味で用いられるようになったのだ。

 つまりは火をつける動作が「カマをかける」というわけだが、ちょっとカマをかけるだけのつもりが相手が本気で怒りだして火がついてしまった…なんていうことのないように注意したい。

 

 

「互角」と「伯仲」の語源

   

「互角」と「伯仲」は共に似た意味の言葉で、使用頻度もほぼ互角。まさに伯仲した二語と言えよう。

だが、語源から見ると、どちらかといえば「伯仲」の方が僅かだがライバル間に実力差があるかもしれない。

 

 まず「互角」だが、そのまま読めば「互いのツノ」ということになる。なんのツノかというと、これは牛だと言われており、元々は「牛角」と書いたとされる。仏教には「牛頭両角」(ごずりょうかく)という言葉があり、これがどうやら互角の語源に繋がるようだ。

牛のツノというものは左右に二本あるが、その大きさはお互いほぼ同じ。つまり二者が同じようで優劣つけがたいときの喩えとして牛のツノが用いられていたわけだ。

 

 続いて「伯仲」 。二人は実力伯仲しており甲乙つけがたい―というように使う。互角と意味はほとんど同じだが、経験的にいえば、「互角」は対立していない関係に対しても使われるのに対し、「伯仲」は対立関係にある存在に用いるのがふさわしい気がする。

 語源だが、これは中国の兄弟の序列から来ている。中国では長男が「伯」次男が「仲」そして三男が「叔」(しゅく)と呼ばれ、長男と次男ではその差が大きくないということから「伯仲」という言葉が生まれた。

 

 しかし一口に長男次男といっても、年齢差が大きいことも多い。

そういう意味では、「伯仲している」という言葉は、「いい勝負をするがまだ差がある」というようなニュアンスの方が正しい気もするが、いかがだろうか?

 

 

実際の意味とはかけ離れた格言たち!

   

 日常多用する慣用句の中には、元々の意味と反対になってしまったものや全然違うものになってしまった言葉が意外と多い。
例えば、「呉越同舟」はいがみあう仲の悪い者に使われるが、本来いわんとしていることはちょっと違う。仲の悪い者同士でも、沈みそうなった船に乗り合わせたなら、団結して窮地を脱しようと努力する―という状況を現す言葉である。
また、「義を見てせざるは勇なきなり」というのも大いに曲解されている名言だ。 この言葉を「人の困っているのを見過ごすのは、勇気のないことだ」という意味だと教わっている人がおそらくほとんどだろう。だが実は元々の意味合いはまったく違う。この格言は孔子の「論語」に出てくるものだが、人々がたたりや霊魂を恐れるのを孔子が見て、「義(理屈、理論的、道理)に合わないことをするのは臆病なのだ」と言ったのがいつのまにか今のような使い方になってしまった。
これをそのまま当てはめるなら、怪談や迷信を過度に怖がる人に対して「義を見てせざるは勇なきなりだよ」とでも言ってやるのが正しい使い方のわけだが、「はぁ?何言ってんの」という顔をされるのがオチだろう。孔子もややこしい言い回しをしてくれたものだ。

 中には二重に意味が変わっているような言葉もある。 「万事休す」がそれだ。多くの方はこの言葉を耳で聞いたら、「万事窮す」という字面が浮かぶのではないだろうか。 実際、現在は「あらゆる手段が尽きてどうしようもなく、窮地に立たされること」という言葉として成立している。 しかし「休す」が正しい表記となると、ちょっと合点がいかなくはないか。 それもそのはず、この言葉が出てくる白居易(はくきょい)の詩を紐解くと、現在の使われ方とはまったく違うことを言おうとしていたことがわかる。
800年頃の唐の詩人、白居易は「老熱」という詩の中で次のように書いている。「ひとたび酒に酔えば、心が満ち足り、全ての物事(万事)が休止したように感じられる。人は誰でも年老いてゆくが、自分は老いてゆくことに何の憂いもない」(一飽百情足,一酣萬事休。何人不衰老,我老心無憂)
 つまり、もともとは「一切の物事が動きをとめる」という文字通りの意味だったわけだが、「きゅうす」の音だけが先行して「万事窮す」となってしまったのである。
 では白居易の意向を尊重して、これもそのまま使うとしたらどんな場面だろうか。
まあ酒を飲んでいるときに使うのが無難といえば無難だが、友人とほろ酔い加減のときに「ああ、万事休すだね」などと言ったら何か悩み事でもあるのかと要らぬ心配をかけてしまうことになる。これはよろしくない。

異性と晴れた日に景勝地にいる時などはどうか。「君と一緒にいると、万事休すだよ」……二度と口をきいてくれなそうだ。
 しかし孔子はともかく、この件については白居易を責めるわけにはいかない。「読んだ字のままではないか、何を曲解しておるのだ」と返されたら、万事休すである。


 

「手を染める」のに「足を洗う」のはなぜ?

      

  慣用句には、人体に関係したものが非常に多い。目、鼻、口、耳はもちろん、手足を用いるものも目立つ。

「手を切る」「手を染める」「足を洗う」などはそのいい例だ。

 ところで、この後者の二つはなんか違和感がないだろうか。

悪事に「手を染めた」なら、そこから「足を洗う」のはヘンな話ではないか。

手を染めたなら手を洗えばいいし、足を洗うなら染めるのは足であるべきだ。 

 そもそも「手を染める」ことがどうして悪いことと関係があるのだろう。それに、悪人が改心するときに文字通り「足を洗う」なんてことがあるのだろうか?

 

 「手を染める」という表現は慣用化しているため、あまり疑問を持たずに使っているが実は相当妙な表現だ。実際に手を何かの染料に浸け、色をつけるというのはかなり特殊なケースだろう。

文字通り染物屋の家業のことを指しているという説もあるが、言葉の使われ方からしてもあまり納得の出来るものではない。

 実はこれ、「染める」のではなく「初める」が元々の意味だというのが有力な説だ。「あの子を見初める」「書初め」のように、「初める」と書いて「そめる」と読む。つまり、「手を初める」が当初の表現で、新しい事、とりわけ商売などに着手するというのが元来の意味合いだったようだ。

 広辞苑で「手を染める」の項を引くと、「ある物事をしはじめる。着手する。事業などに関係をもつ。」とあり、本当は悪いニュアンスなど持っていないことがわかる。

「悪事に」が枕詞のようにして「手を染める」とセットで使われるようになってしまい、手を染めるのは悪いこと、という刷り込みがなされてしまったのだ。

 

 では、「足を洗う」の由来はどうだろう。実は、中国語や英語では「足を洗う」に相当することわざは「手を洗う」と表現される。

また中国では「手を染める」に似た表現として、「手を突っ込む」というような意味の言葉を使う。中国では手を突っ込んで手を洗うわけだ。

 しかし、日本の「足を洗う」の成り立ちは中国のことわざとは関係がなさそうだ。

 有力なのは、仏教の習慣に起源があるというもの。

インドの托鉢僧は、一日中裸足で歩いて修行をしていた。道は舗装されていないので、帰ると足は泥だらけ。その足を洗って、心身ともにきれいになることで俗世との関係を浄化したという。

 これはこれで頷ける話だし、説得力がある。しかし、それなら仏教圏

の中国も同じ表現をしていてもよいのではないか。ところが前述したように中国では「手を洗う」という表現だ。

すると、これは日本の習慣や価値観も大きく関係していると考えられるかもしれない。

 「手を染める」とは異なり、「足を洗う」に肯定的な意味合いはほとんどない。洗うのは悪い所業からである。 興味深いことに、何かと関係を持つことを「足を入れる」そして関係を断つことを「足を抜く」という慣用句がある。

一度「足を入れ」た汚い仕事から「足を抜」いただけでなく、かかわりを完全に断つという強い意味で「足を洗った」という表現が生まれたのではないだろうか。

 

 「手を染める」には否定的な意味合いはないのだから、新しい事にどんどん手を染めて頂きたい。そしてもちろん、足を洗わなければならないような所業は避けるのが賢明、ということだ。

 

 

覚えておくと面白い、モノの別名

    

 日本語には、「粋」といえる表現や名前がたくさんある。とりわけ、正式な名前よりも別名のほうが面白いものが多い。

 

 例えば、「御御御付」と書いてなんと読むかご存知だろうか。これは味噌汁の丁寧な呼び方である。汁の付け物を丁寧に言って「おつけ」更にそれが「みおつけ」になり、とうとう「御」が三個も重なって「おみおつけ」になってしまった。

 また、醤油のことを「ムラサキ」というのはよく知られているが、「御下地」おしたじ、という別名もある。「そこの醤油とって」というよりも「御下地お願いします」という方が上流階級っぽくていい。

 「雪花菜」「卯の花」これは共におからのことで、前者は「きらず」と読む。豆腐の殻つまりカスを意味する「おから」に比べ、卯の花や雪花菜といった表現はいかにも粋だ。

 

 食べ物の別名で面白いものはまだまだある。

キャベツを「玉菜」という人は結構多いだろう。でも、「甘藍(かんらん)」という呼び名を知ってる人はあまりいないかもしれない。ちゃんと広辞苑にもキャベツの別名として出ている。

 珊瑚樹茄子(さんごじゅなす)、小金瓜、唐柿、番茄(ばんか)、赤茄子。これらはみな、トマトの別名だ。中でも赤茄子が一番知られているだろう。珊瑚樹茄子なんて一生口に出すことがなさそうな呼び方だが、頭の中で使うだけでもちょっと豪華な気分になれる。「晩御飯は珊瑚樹茄子と甘藍のサラダ」なんて、どんなきらびやかな料理かと思ってしまう。

 

 厨(くりや)から出て次に行くところといえば(?)、トイレ。これも別名が沢山ある。お手洗いに始まり、厠(かわや)とか御不浄はよく耳にするが、「憚り(はばかり)」「雪隠(せっちん)」「隠所」、「閑所(かんじょ)」「後架」なんて言葉もある。デパートでは「突き当たり」や「遠方」など、一般の人が聞いてもわからないような表現が使われる。

 

 ちょっと考えてみると、別名が「ないモノ」って存在するのだろうか。

今皆さんが見ているパソコンのモニタも、ディスプレイや画面などと言い換えられる。パソコンを日本語で言うと電子計算組織だ。アイロンは西洋火熨斗(せいようひのし)だし、トランプは西洋かるたと呼ばれる。円を書くコンパスは「規」と書いて「ぶんまわし」という呼び方もある。

 つまりモノが一つあると、それには複数の呼び名があると思っていい。

「これ、いつもはこう呼んでるけど、他にどんな名前があったっけ」と考えてみると、電車の中でもお風呂の中でも退屈しないだろう。 

 

 

閑古鳥ってどんな鳥?

  

 閑古鳥でも鳴いているうちはまだいい。 本当に寂しい状況のとき、そう思ったことはないだろうか。閑古鳥の声すら聞こえないようだったら、空しいことこの上ない、と。

そう、閑古鳥が鳴くというのは「寂れていること、人がいないこと」を表す言葉だが、どんな鳥にせよ鳴いてくれるだけマシなのではないか。だが、閑古鳥はただいればよいというわけではなく、「閑古鳥が鳴いている」ことで初めて寂しい様を表す言葉になる。ということは、鳴き声が寂しい鳥だ。しかし、そんな「閑古鳥」ってどんな鳥だろう。果たして実在する鳥なのだろうか?

 

 鳴き声が寂しいといえば、まずカラスを思い浮かべる。 確かに、夕暮れ時のカラスの声は物悲しく聞こえる。しかしカラスは群れになることが多い。やはり、一匹だけの声が、しかもどこからともなく聞こえてくるのが最高に寂しいだろう。 この条件を満たす鳥とえいば− そう、これはカッコウなのである。 閑古鳥という名はカッコウの古い呼び方なのだ。カッコウは林や草原などに生息するホトトギス科の鳥で、日本全土で見ることができる。

 人気のない林の中で響き渡る「カッコー…カッコー…」の声は、確かに森閑とした情景を一層寂しく心細いものにする。

 松尾芭蕉の句には「憂きわれを さびしがらせよ 閑古鳥」と詠んだものがあり、閑古鳥は鳴くほど寂しさを引き立てるものだというのがよくわかる。

 

 小さな店などは、客がまったくいなければ注目されることもない。だが、そこに一人ばかりの客がいると逆に、「ああ、客いないな」となってしまう。店先でネコが昼寝していたり、店員が暇そうにしているような場合も同様だろう。

 もちろん一人でも二人でも、お客がいてくれるのはありがたい。そういう意味では、やはり閑古鳥であっても鳴いてくれるだけマシなのだろうか。

 

 

「ドジ」を踏む―何を踏んでいるのか?

 

 「ミスが多い人」「失敗が多い人」と言われれば落ち込むし腹も立つだろうが、「ドジな人」ならば笑い飛ばせてしまえるだろう。

自分のことを「ドジなもので」などと軽く自嘲していうこともある。 「ドジ」には、失敗はするけれども許せてしまう、笑えてしまう、そんなニュアンスが含まれているようだ。

 

 だが、これが「ドジを踏む」というとまた少し感じが変わってくる。「あいつはまたドジを踏んだ」「仕事でドジを踏んだ」といたようにいくらかトゲのある言葉になってくるのだ。 どうも、「ドジ」は踏むとまずいものらしい。 では、踏んではいけない「ドジ」とはなんのことなのだろうか。

 

 「ドジ」は「土地」という語が変化したものだといわれる。昔は、相撲で土俵の外に足がついて負けてしまうことを「土地を踏む」といった。それがドチを踏む―ドジを踏む、と転化してしていった。

ここから転じて、失敗することをドジを踏むというようになったのだ。

 力士にとって土俵際はまさに勝負の分かれ目となる生命線。どちらかが踏み超えなければならないものだが、それを「ドジを踏んだ」などと言われたらたまったものではないだろう。

 もっとも、ほんとにドジって足を滑らせて「ドジを踏んだ」のなら別だが…

 

 

「灯台下暗し」の間違い

 「身近の事情はかえって分かりにくいものである。」という意味のことわざ、あなたなら何を挙げるだろうか。恐らく「灯台下暗し」だろう。

私の父はズボンを履いたままズボンを探したり、メガネをかけたままメガネを探していることが時々あるが、これこそ灯台下暗し。―いや、これはただの天然ボケか。

 

 「灯台下暗し」は非常に有名なことわざなので、子供から年寄りまで多くの人に知られている。

 だが、あなたは勘違いしていないだろうか。「灯台」の意味である。

このことわざでいっている「灯台」とは、イラストにあるような船の目印になる岬の「灯台」では、

ない。

 さあ、今まで間違って覚えていた方は脳の回路を繋ぎ変えていただきたい。

「灯台下暗し」の「トウダイ」、実は「灯明台(とうみょうだい)」のことを指している。 

灯明台とは昔使われていた、油やろうそくを燃やして明かりとする室内照明具のこと。「燭台(しょくだい)」とほぼ同じ意味だ。

 灯明台の芯に火をつけて辺りを明るくしても、台の足元は暗くなっている。暗い部屋でろうそくをつけて見ればこのことがよく分かるだろう。このことから、現在使われているような意味に転じたわけだ。

 書くときはもちろん「灯台下暗し」で間違いではない。しかし、意味はしっかりと覚えておくようにしたい。ちなみに、岬のトウダイのことは「燈台」と書くほうがどちらかといえば、正しい。

 

 それにしても、「灯台」そのものの意味を間違って覚えていたとしたら、それこそ灯台下暗しである。

 

 

賞状に句読点がないのはなぜか

 私はこれまで「賞」というものをもらった経験がほとんどない。

なにやら小学校のときに親に手伝ってもらって描いたポスターが入選したような記憶があるが、それ以降これといって賞をもらっていない。

だから、スポーツや芸術に秀でた方の部屋に並んでいる賞状が、なにやら眩しく見えてくるものである。

 

 ところで、この賞状また感謝状などには句読点がないのである。前述したように手元にそんなものは一枚もないが、他の人のを見せてもらうと確かにない。 これはなぜだろうか。

賞状のレイアウトを見てみると、句読点を入れることによってなんとなく品位が落ちるのは分かる気がする。だが、理由はそれだけではない。

 

 そもそも、日本には文に句読点を入れるという習慣はなかった。句読点の入った文書が見受けられるようになるのは明治も30年代になってからである。西洋から、コンマやピリオドを入れるといった風習が輸入され、その反映として句読点が使われるようになったのである。

 では、なぜ句読点を使う必要が出てきたのか。これは、中国の漢文と関係があるらしい。

 皆さんも学校で習ったと思うが、「国 破レテ 山 河 在リ…」といった漢文には「レ点」「一二点」「上中下点」といった「返り点」が使われる。その系統として文の区切りや終わりを示す句読点が挙げられるのだが、慣れてくればこういった補則符号は必要ない。つまり、「符号を使う=学のない人」という図式ができてしまうのだ。

 

もちろん、句読点を使えば読みやすい文が書けるのだから一般の人が使う分には問題ない。

だが、賞状や感謝状といったものに使うとその人を見下す感じになってしまう、というわけだ。

つまり、賞状に句読点がないのは相手に敬意を表すため、と言えるだろう。

 

 ちなみに賞状などの宛名は「何々 殿」となっているが、「殿」は「様」よりも一ランク下の表現。

これは賞状を発行するほうが目上ということになるのだから、正しい使い方である。だが「殿」を手紙で使うと、礼を欠いた印象を与えかねないので気をつけよう。

 

 

「侘び」「寂び」の違い

  日本という国には、独特な感情や感性がある。 中でも、「侘び、寂び」は代表的な感性といえるだろう。 よく使われる言葉だが、では「侘び」「寂び」の意味を説明してみろと言われると困ってしまう。 なんとなく寂しい様子や枯れた雰囲気を表すのは分かるのだが、両者の明確な違いはどうも釈然としない。 ここは日本人として、「侘び」「寂び」の正しい意味を理解しておく必要がありそうだ。

 

  まずは「侘び」だが、これは「侘ぶ」という動詞が名詞化したもの 。「侘ぶ」には気落ちした様子やがっくりした様子、また閑居な地で生活するといった意味がある。 

そして、「侘び」という語は一般的には俳諧、とくに芭蕉の蕉風俳諧の美的理念なのである。

  落胆や失意の中に感じる、深い感情や情緒、味わいといったもの、それが「侘び」である。

これを受けて、芭蕉の句には寂しさや悲しみ、諦観といったものが表れている作品が多い。

「ものいへば 唇寒し 秋の風」  「夏草や つはものどもが 夢の跡」

「父母の しきりに恋し 雉の声」  「初しぐれ 猿も小蓑を ほしげ也」

といった句には芭蕉の「侘び」の精神が滲み出ているといえるだろう。 

 

  「寂び」は侘びの概念を更に発展させたものとも考えることが出来る。

賑やかな様子や豊かなもの、美しいものが閑寂になり、枯れたときに見いだす深いおもむき、それが「寂び」である。たんに寂しい、悲しい、孤独といった感情ではなく、そこに深い豊かさが伴わなくてはならなず、「侘び」と対をなす。

  例えば、人が大勢出て賑わったお花見。やがて花が散ってゆき、それも終わる。ひところの華やかさは幻のように消えうせる。そこに漂う一種の哀愁、寂寥、閑静といった感情。これが「寂び」と言えるだろう。 ノスタルジーや懐古主義とは近似をなしながらも一線を画す。まことに奥深い、日本ならではの豊かな感情だ。

 

  以上から、簡単に言えば「侘び」と「寂び」の違いは、 「侘び」は人の感情の中に情趣を見いだすもの。そして物事の様子から寂しさや深いおもむきを感じるのが「寂び」ということになる。

  だが、これはかなり簡略化した説明だ。実際の「侘び」「寂び」の持つ深い意味は、あなたの心で感じ取るしかないかもしれない。

 

  侘び、寂びを感じ取れる事象は身近に無数存在する。ただ見逃しているだけなのだ。

心のアンテナの向きをちょっと変えて、この深い感情を豊かに感じ取れる人間になりたいものである。

 

 

「右」の定義

 突然だが、ちょっとパソコンから目を離して、「右」という言葉の定義を考えていただきたい。「右」という言葉を全く知らない人にも分かるように、である。

 

 …実際にやってみるとこれが意外と難しいことに気付くだろう。

「お箸を持つほう」という説明は左利きの人には通用しない。右手を出して「こっちのほう」ということはできるが、対面していない相手には効果がない。 半ばやけになって「右は右だ」としか言えなくなってくるのではあるまいか。

  ではここで、定義の達人「広辞苑」に登場していただこう。最高権威の辞典はこの難しい定義をどうクリアしているのか。

 

  [みぎ] 南を向いた時、西にあたる方。⇔左。

 

 なるほどその手があったか、と唸ってしまうようなうまい説明である。 だがどちらかといえば北を向いたときのほうが分かりやすい気がするが。なにゆえ南が視点なのか…

 まあそれはともかくこの問題、友人との会話でちょっと盛り上がれるものになること間違いない。覚えておいて損はないだろう。

 

 

「村八分」ってなにが八分?

  今ではそんなに耳にしなくなったが、少し前は「村八分にされる」あるいは略して「八分にする」などといった言い回しがよく使われた。 これは仲間はずれにする、ボイコットするといったといった意味で、今でいうシカトに近い言葉である。 

 

  この語は農村の古い慣習から生まれたといわれている。 村には十の行事があった。冠、婚礼、葬式、建築、火事、病気、水害、旅行、出産、年忌である。

そして村人が罪を犯した場合、村全体でこれらのうち実に八っつを絶ったのである。残る二つは葬式と火事。火事は本人のためというよりも、近隣に火を燃え広がらせないためだと考えられる。葬式は死んだらもう罪はないということなのだろう。だから、実質的に生きている限り全ての付き合いを絶たれると見て間違いない。

 

  なんとも厳しい制度だが、こういった制度によって村人の仲間意識は非常に強いものとなったのであろう。

 

 

将棋の歩の裏の「と」ってどんな意味?

 将棋をやらない方にはピンとこないかもしれないが、「歩」の駒の裏には「と」 のような文字が書いてある。

 将棋の駒は王将と金将以外、敵陣の三段目以上に進むと金将の動きができるようになり、これを「成(な)る」という。 ここから歩が成ることを「と金」などと呼ぶ。「成金」もここからきた言葉だろう。 

 「と金」に成った歩は金将と同じ動きができるが、相手に取られた時はただの歩兵に戻るため、戦略上非常に重要な駒となる。

 金と王以外の駒には、成って裏返しても元の駒がわかるように、赤文字で「竜」などそれぞれ書いてある。だが、分からないのが歩にある「と」の文字だ。

 

 実はあの文字は平仮名の「と」ではない。「金」という字を極端に崩して書いたものなのだ。 素人目にはどうしても「と」にしか見えないのだが…

 

 

「伊達男」って伊達政宗に関係が?

  伊達男といえばスタイルはよいがちょっと見栄っ張りで派手な男性の代名詞である。

  伊達とはもちろん独眼竜といわれた伊達正宗のことだが、正宗はそんなに派手だったのだろうか? 

正宗の遺体を調べると鼻筋の通った男前だったといわれている。 また行列の時にはことさら派手な格好をして人々を驚かせていた。 こんなわけだから、伊達政宗=伊達男の式は成立する。

しかし実は「ダテ」という言葉は正宗以前にもあったのだ。

 

  元は「男を立てる」などの「タテ」が変化したものだといわれ、そこに正宗の派手振りを見た庶民が「なるほど確かにタテ男だ」という掛け言葉で揶揄(やゆ)ったのだ。

  つまりもともとダテ男という言葉は存在し、正宗によってそれが波及したというのが真相である。

 

 

「マジ」のマジ!?な語源

 若い人なら少なくとも2日に一回は必ず使ってしまうであろう言葉が「マジ」だ。

世の中がそれほど信じられないというわけでもないだろうが、相づちの代わりとしてもなかなか汎用性の高い言葉なので愛用されている。

  この言葉の語源、普通は「まじめ」の「まじ」をとったものだとされている。なるほど、「それ真面目な話!?」が略されて「マジな話!?」かなり信憑性のある説である。もちろんこの説は正しいと思う。 いや、正しいのだろう。

だが、ここにひょっとしたら・・・という全く別の説が存在する。

 

  それは、打消推量の文語体である「まじ」からきたというもの。文語とは日本で古くに使われていた言葉だが、この中に「まじ」という助動詞が存在するのだ。

  文語の「まじ」には様々な意味がある。だが、その中でよく使われるのが打消推量、すなわち「・・・ナイダロウ」という否定の意味なのである。 そもそも「まじ」は不可能や禁止、否定を表わす語。今でも使われる言葉に「あるまじき行為」というのがあるが、あれは「あってはならない行為」のこと。つまり「まじ」が打ち消しに使われているのだ。 現在使われている「マジ」も「そんなことはないんじゃないの?」という軽い否定のニュアンスが含まれている。

  「まじ」の活用形は次のとおり。

 

 

  「まじ」が使われている書物には「ただ今は見るまじ」とある「枕草子」、「この事は更に御心より漏らし給ふまじ」という記述がある「源氏物語」など数多い。

これらの用法を見ていくと、「本当だろうか」ということを表わすのに「まじか」という言い方もあるのではないかと思われる。

  思うに、「マジ」がこれほど違和感なく市民権を得たのは、「まじ」という言葉自体が元来持つニュアンスを日本人として遺伝的に知っているからではないか。つまり、「マジ」は文語の「まじ」の下地の上に今の地位を築いたと言えるのだ。

 

 

雨ニモ負ケズ

 「雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ」で始まる宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」。

これは賢治の持ち歩いていた手帳に書かれたもので、日本人ならおなじみの文章だろう。だが、全文に触れる機会はあまりないかもしれない。

そこで今回は「雨ニモ負ケズ」の全文を紹介しよう。

 

 

雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク決シテ 瞋(いか)ラズ イツモシヅカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ 入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキノ 小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモ アレバ 行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ 稲ノ束ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクワヤ ソショウガアレバ ツマラナイカラ ヤメロトイヒ

ヒドリ(日照り)ノトキハ ナミダヲナガシ

サムサノナツハ オロオロアルキ

ミンナニ デクノボート ヨバレ

ホメラレモセズ クニモサレズ

サウイウモノニ ワタシハ ナリタイ

 

  いかがだろう。現代において、このようなことを実践できる人はほとんどいない。この文に現れている「謙遜さ」や「人に仕える精神」といった、かつて日本人にあった美徳も失われてきているのではないだろうか。

一日に玄米四合食べる必要はないが、賢治の精神を少しでも見習いたい。

  ちなみに私は、最後から3行目だけは実践していると胸を張ることができる。

 

 

聖書にはこんなに諺がある!

 「目から鱗が落ちる」「豚に真珠」「砂上の楼閣」これらの諺は多くの人がご存知だろう。

しかし、これの語源はといわれると首を傾げて固まってしまう人が多いのではないだろうか。特に「目から鱗が落ちる」なんてよく使うものの全く意味不明の言葉である。豚に真珠だってわざわざ豚に真珠を投げてやるような物好きがいるとも思えない。 ところが、これらの言葉の出展は意外や意外、聖書にあったのである。 聖書というと西洋的なイメージがあるかもしれないが、実は元々メソポタミア地方等東洋で書かれた物である。

 

  「目から鱗が落ちる」の出典は使徒9:18節だ。「するとすぐにその両目からうろこのような物が落ち、彼は視力を取り戻した。」とある。この場合物理的に落ちたようだが、現在は完全に理解するというような比喩で使われている。

 

  「豚に真珠」これはマタイ7:6節。「神聖なものを犬に与えてはなりません。あなた方の真珠を豚の前に投げてもなりません。彼らがそれを足で踏みつけ、向き直ってあなた方をかき裂くことのないためです。」 豚に真珠と同じ意味で猫に小判というのがよく使われるが、聖書の場合犬に神聖なものというところだ。だがちょっと語呂は悪い。

 

  「砂上の楼閣」日本語の聖書にこの表現が出てくるわけではない。そもそもこの言葉の出典は辞書を見ても載っていない。しかし恐らくマタイ7:26節ないしルカ6:49節辺りが元になっていると思われる。マタイ7:26節を途中から書くと、「わたしのこれらの言葉を聞いても行なわないものはみな、愚かな人に例えられるでしょう。それは砂の上に家を建てた人です。」とある。続く節には洪水によって砂上の家が悲惨な状態になることが描かれている。

 

  砂上の楼閣に建っている日本という国、いくら経済政策や中小企業援助をしても豚に真珠。早く目から鱗を落して欲しいものである。…うん、かなり無理があるな。やはりちゃんと考えてから書かないと、砂上の楼閣!?

 

 
     
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